14.似島、廣島の加害と被害を一身に背負った怨念の島


(1)1999年8月7日フィールドワークから

 

上は弾薬庫跡、2001年12月まで、似島学園桟橋のすぐそばに、土塁に観まれた6つの建物がありましたが、今は代表格だった1番入り口に近い写真のものを含めて、1つだけを残して(隣のきれいな塗装がされたもの)解体されてしまい今はありません。1999年のフィールド枠の時はご覧のようにありました。

 

 

1999年8月7日の「広島湾スタディ・クルージング」は、呉周辺の旧海軍基地跡や、米軍弾薬庫、海上自衛隊の艦船等を船上から見学したあと、宇品港からすぐの島、安芸の小富士ともいわれる、似島(にのしま)のフィールドワークが行われた。島には、疫病との闘いとも言える日清戦争(戦死、戦傷死1530名に対し、戦病死1480名)で、広島市内にコレラ、赤痢が流行したため、戦後1895年検疫所が設けられ、職場から帰った兵士や馬達はここで消毒されてはじめて本土の土を踏む事が許されるようになった。日露戦争では、さらに第2検疫所が設けられ、捕虜集容所(ドイツ人捕虜がサッカーを持ってきた)も置かれた。さらに、市内にあった弾薬庫も爆発事故(1921年)を起こしたため、この島に移された。55年前の戦争では、字品港からこの島の周辺は「広島湾要塞地帯」となり、陸軍運輸部・船舶司令部(通称暁部隊)が置かれ、少年兵たちはベニヤ板の船での特攻訓練にあけくれていた。原爆が落ちた時、暁部隊のみが無事だったため、市内への救援に入り、1万人もの被爆者をこの島に運び込み、多くの犠牲者たちが、ここの検疫所や防空壕でそのまま息を引き取っていった。これらの施設の跡が、今は似島学園や臨海少年自然の家となっている周りに、案内の久保浦さんの言葉によれば、かなり少なくなってしまったと言われるが、はじめて訪れる人達には少なからず衝撃を与えるほど残っています。当日はあいにく俄か雨にたたられ、ほんの一部だけだったが。なお、製作者はこの時だけでなく、何度も似島へは足をはこんでいますので、続いて紹介していきます。

右は死体焼却炉煙突(煉瓦造り。故郷を目前に病死した兵士が遠く故郷を思いはせながら亡くなりました。ー焼却されたのは伝染病死者とロシア人、ドイツ人捕虜ということです。写真は2003年9月のもの。)

左下はそこから見える、第一検疫所開設の当初造られた上陸用桟橋2本

 

 

 

右下は軍用水道施設跡(第一検疫所が出来た時に設けられたもの。伝染病を防ぐため、特に重要なものでした。)

 

 

 


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