5.東観音町・日露戦争凱旋碑と原爆慰霊碑 (西区東観音町12・天満川河畔緑地帯)
東観音町の天満川河畔緑地を、観舟橋西岸から平和大通り方面北に少し行くとまず
,仏像の姿をした観音町民原爆慰霊碑があります。さらに行くと戦争犠牲者慰霊碑・原爆犠牲者慰霊碑がありますが、その横に日露戦争凱旋碑がとても良く手入れされて立っています。
この広島の南に位置する観音町という地区は、江波地区と並んで、戦争中、三菱が強制連行等で連れてこられた朝鮮半島出身者を動員して、機械・造船工場を、多くの犠牲者を出しながら突貫工事で埋め立てながら造っていったところで、その関係で多くの朝鮮人が住んでいた所です。平和大通りに広島第二国民学校慰霊碑がありますが、1200名もの大規模校であったにもかかわらず学校が再開されて出てきた児童はわずか百名に過ぎなかったといいます。爆心から1キロぐらいだから原爆の犠牲となった児童も多かったと思われま
すが、当時は学童疎開もあり、これだけ減ったのは、多くは朝鮮人子女の数が多く、母国への引き揚げの混乱が原因と思われています。そのような被差別者や貧しい人たちが住んでいた地区や、その回りに、こともあろうにというか、むしろ多くこのような「軍都廣島」を称える凱旋碑が立っています。もっと南に行った、空港通りのある黄魂彦神社内には、通りを背にして、日清、北清(義和団の乱)、日露戦争の立派な凱旋碑が立っています。
「自分たちは日本人だ!朝鮮人なんかじゃない」と言いたいのでしょうか?そう言えば、「軍都廣島」の生みの親、「千田貞曉」にいじめられた大河地区にも同じ現象があります。大芝地区にも。「広島は残酷な町……」という原爆詩人栗原貞子さんの詩の一節が呼び起こされます。「貧しい人こそ差別する……」という現実を直視せざるをえません。三菱広島・元徴用工被爆者へのへの戦後補償を求める広島地裁の、一切の補償を認めないという、1999年3月25日の犯罪的第一審の判決もこのような素地の中で下されたと言えるかもしれません。なお、この日露戦争凱旋碑にはついては、ある高名な写真家の立派な写真集では、見事にカットされて除外されており、また別の写真集では写っていても「水子供養の碑」などと説明されています。
触れているのは、1993年亡くなられた宅和純先生の「広島教育ジャーナル」への連載「碑めぐり」と、筆者がだ出した「原爆遺跡・軍都廣島案内ハンドブック」のみで、いずれも絶版となっています。