私は1944年5月6日に広島県呉市上畑町259番地に生まれました。現在はこの番地表示はありません。
小さい頃は、山の中や、田圃や畑の周りで遊び自然の中で育ちました。呉市とは言え上畑の一番上の方で
灰が峰の麓に生活していたもので、電気こそあれまだメーターの無い時代で、水道は勿論下水道もありません。
電話やテレビもなく自動車類もありません。その代わりに牛が居ました。我が家は純粋に百姓なので
他に収入はありませんでした。

小学校は近くの吾妻小学校に昭和26年(1951年)に親父の作った草鞋を履いて入学します。当時、私の記憶では、
靴を履いていた子はクラスに2人しか居なかったと思います。
5月生まれでもあり、食欲旺盛な小生は体が人一倍大きく。力持ちの新城として見られていました。
勉強はあまり好きではなく、走り回ったり運動場で遊ぶのが好きでした。話も随分好きだった様に思います。

昭和32年(1957年)には、地域の東畑中学校に入学しました。その頃は、現在の塾の様に、公立の中学校でも
成績順に廊下に点数氏名が張り出されていました。体力に任せて頑張ってしまう羽目となったのです。
中学時代は、生徒会の書記に立候補し演説なるものを経験したり、選挙で当選する経験をし、運動会では
先頭の校旗持ちを経験したり楽しい毎日を過ごしました。勉強もそんなに嫌いではなく。

昭和35年(1960年)には、中学の担任の勧めに逆らって呉三津田高校に進学しました。貧乏人の子なんだから
工業高校の計測科に進学して、早く儲けて一人暮らしのお母さんを助けなさいというのが中学の担任の勧めでした。
区域外から電車にて通学することとなりました。
当時の三津田高校は進学一辺倒だったので、授業前補講、授業後補講と大変な毎日でした。
競争も激しかったと記憶しています。
大学に進学する費用の無い小生は、特別奨学生を受けるようにはしていましたが、
呉市内にある海上保安大学校を先輩を通じて知ることと成りました。
何度か大学校を訪問するうちにここがいいなと思うようになりました。しかし、全国から集まる受験生
多数のため、競争率は35倍以上ということで、宝くじクラスかなと思って受験しましたが、
運良く合格することが出来ました。