今活動していること


モルデハイ・バヌヌさんに自由を!〜バヌヌ氏釈放キャンペーン〜

みなさんは、モルデハイ・バヌヌという名前をご存知でしょうか?

彼はモロッコ出身のイスラエルの核技術者でした。彼はイスラエルの秘密の核兵器工場で働いていました。しかし、同国によるパレスチナ占領政策と核開発に疑問を抱くようになった彼は、パレスチナ人との共存を訴えるデモに参加するようになります。1986年、工場を解雇された後、彼はイギリスに渡り、イスラエルの核開発に関する議論を起こさせるために、新聞に同国の核計画についての情報を送りました。イスラエルがすでに数百発の核爆弾を製造したという内容のこの記事は、当時、世界中に大きな衝撃を与えました。

しかしその直後、彼はアメリカ人女性を名乗るイスラエル情報機関「モサド」の諜報員にだまされてローマに連れて行かれ、そこで薬物を使って誘拐され、違法にイスラエルに連行されました。まるでスパイ小説のようですが事実なのです。彼は裁判で弁護士と十分連絡をとることはできましたが、逮捕の状況を明らかにすることはできず、「反逆罪」で18年の刑を宣告されました。それ以降17年以上にも渡って地中海沿いの町、アシュケロンのシクマ刑務所に収容されました。

その間、アムネスティは彼の逮捕の状況や、現在置かれている境遇が「残酷で異常な刑罰」にあたること、裁判が公正なものでなかったことなどから、彼の即時釈放を要求してきました。

アムネスティひろしまのメンバーが彼に手紙を送ったところ、1999年、彼から返事が届きました。彼は広島からの手紙に喜びを表し、自分の行動が中東でヒロシマを繰り返さないための行為であったこと、全世界に対する広島市民の使命と目的は核兵器廃絶と核兵器の非合法化であると述べています。彼とひろしまグループとの文通は彼が釈放されるまで続きました。 また、イスラエル当局に対して彼の完全釈放を求める手紙も書きつづけてきました。(ちなみに彼は、18年連続ノーベル平和賞の候補にあげられましたが、本人は2010年、候補者となることを辞退しています)

そして、2004年4月21日に彼はついに釈放されました。ひろしまGの運営担当も現地に赴き、彼の釈放の現場に立ち会うことができました。更には、釈放された日の夜、限られた支援者との祝賀会の中でついに彼と会うことができたのです。抱擁し、互いに言葉を交わした時、彼は「広島へ行く、と日本の人々に伝えてくれ」と言いました。また、そのパーティーでのスピーチの中で、彼は今後、核兵器廃絶及び、イスラエルによるパレスチナ占領を終わらせるために活動していくことを宣言しました。(イスラエルで撮った写真はこちらです。)

しかしながら、彼に対しては釈放後も様々な制限が加えられています。海外渡航の禁止の他、特別な許可がなければ、外国人やジャーナリストに会うこともできませんし、国内旅行するにも事前の許可が必要です。更には国境から一定の距離以内に入ることも禁じられています。このようなイスラエル政府による釈放後の制限措置については、アムネスティを含む人権NGOや国際的な平和団体なども厳しく批判しています。

2004年5月30日にはバヌヌ氏に対するインタビューの番組がBBCで放映されました。これに対してイスラエル当局は激怒し、BBCとの関係を見直すと述べています。イスラエルにとっては自国で撮影されたフィルムは全て検閲を通らねばならず、英国に密輸されたビデオテープを問題として、BBCを嘘つきだと罵っています。特にイスラエル外務省と法務省は諜報部であるシンベトから英国人ジャーナリスト、ピーター・ホーナム氏の逮捕・拘禁(5月26日)も事前に知らされず、また今回のインタビュー・ビデオ放映を食い止められなかったことで、面目丸つぶれと感じているようです。それと、5月28日にはバヌヌ氏を教会に匿っている英国国教会主教、リア・アブ・エルアッサル氏が旅行先のヨルダンからイスラエルに戻った時、空港で尋問を受けたとのことです。彼もバヌヌ氏へのインタビューの件で1時間半、尋問されたとのこと。

バヌヌ氏に対するイスラエル人ジャーナリスト、ヤエル・ロタン氏によるインタビューの内容ですが、特に彼がロンドンからローマ、イスラエルまで誘拐される経緯及び、獄中での生活が詳しく述べられています。彼は2m×3mぐらいの独房に11年半、閉じ込められていたのですが、最初の2年間、独房の明かりはつけっ放しで監視カメラ付きだったとのこと。
また、その後も30分毎に看守が懐中電灯で彼を照らして確認していたとのことです。睡眠妨害は人の心を痛めつける有力な手段の1つだとも述べています。また1986年春に起きたチェルノブイリでの惨事が、暴露を逡巡していた自分の決心を固めさせたとも述べています。

2004年7月26日、バヌヌ氏に加えられている様々な制限の解除を求める訴えが高等裁判所によって却下されました。バヌヌ氏はイスラエルが真の民主国家ではないと述べ、再度、イスラエルを離れたいという希望を述べています。7月11日にあった裁判を傍聴したノルウェーの支援者によると、3時間半の内、バヌヌ氏や弁護士を含む傍聴人は25分間を除いて法廷から排除されるという異常なものだったそうです。また、26日の決定の前にIAEA(国際原子力機関)のエルバラダイ事務局長がイスラエルを訪問したのですが、ディモナの原子力施設へも行かず面会を希望していたバヌヌ氏にも会わず去って行きました。バヌヌ氏は「彼はイラクでしたことをここでもすべきだった」とコメントしています。

バヌヌ氏に科されている現在の制限措置は全く不当なものです。彼の弁護士も述べていましたが、外国人との接触を禁ずるというのであれば、会う人全てのパスポートをチェックしなければならなくなります。彼に対する制限措置についての裁判が2010年現在も、進行中です。そして、5月23日の朝、3カ月の刑で再び収監され、また独房に入れられましたが、8月8日に釈放されました。しかし、まだイスラエルという大きな監獄から出ることは許されていません。


バヌヌさんの自由を求め、05年4月18日に原爆ドーム前でビジルがありました。
詳細はこちらです。


■バヌヌさんの自由をイスラエル当局に求める手紙の宛先、文例はこちら

バヌヌさん本人から送られてきた写真及びバヌヌ氏に関する諷刺画はこちら

また、バヌヌさん自身のウェブサイトはこちらです。

 関連資料 (重要と思われる資料は太字で記載しています。)

バヌヌ氏に関する最新情報(2015年2月4日)

内部告発者への馬鹿げた制限を解除せよ(2014年4月19日)
  アムネスティのプレス・レリースの和訳です。釈放されてから10年経過しても自由を得ていません。

バヌヌ氏への恣意的な行動制限を終わらせよ(2010年10月11日)
 アムネスティのプレス・レリースの和訳です。その後、バヌヌ氏より請願は却下されたとのメッセージがFacebookでありました。

独房にいるバヌヌ氏と面会した同氏の弟からの報告(2010年7月12日)
 7月11日頃に面会したメイヤー・バヌヌ氏からアムネスティへの報告です。

イスラエルの核の内部告発者、再び独房監禁に(2010年6月18日)
 アムネスティのプレス・レリースの和訳です。

イスラエル政府は核の内部告発者を再投獄してはならない(2010年5月12日)
 アムネスティのプレス・レリースの和訳です。

○「声を上げるのがわれわれの義務だ」(2010年1月2日)
 英国の著名なジャーナリスト、ダンカン・キャンベルによる英国ガーディアン紙の記事です。2009年末にバヌヌ氏が再逮捕されたことを受けての論稿です。

ヒロシマと世界:古い「核秩序」から新しい「反核秩序」の時代 確立へ(2009年10月26日)
 モルデハイ・バヌヌの支援者でもあるイスラエルの元国会議員、イサム・マフール氏が中国新聞に寄せた論稿です。イスラエルの核兵器についての国際的な二重基準を鋭く突いています。

「バヌヌを自由にすべき時だ」(2008年4月16日)
 ハーレツ・コムからの記事の拙訳です。執筆者のヨッシ・メルマンはイスラエルの諜報分野に詳しい記者で、これまでバヌヌ氏の釈放について主張することはありませんでした。

ノーベル平和賞受賞者、マイレッド・マグワイアさんから日本へのメッセージ(2008年4月19日)
 北アイルランドの平和に貢献したマイレッド・マグワイアさんから、バヌヌ氏支援のためのメッセージが届きました。

ノルウェー政府がバヌヌ氏受け入れに動き出す(2008年4月14日)
 ノルウェーのバヌヌ支援者、フレデリック・ヘッファメールさんからの情報です。

○2008年1月6日、6ヶ月の刑を地域奉仕活動に減刑するというイスラエル政府の提案をバヌヌ氏は受け入れました。その奉仕活動の詳細はまだ明らかではありません。また、イスラエル当局による彼に対する嫌がらせは止まず、2007年12月24日にはドイツ人女性に自分の話をしたとして数時間、勾留されました。アムネスティ国際事務局からの情報(2008年1月16日)によるものです。

「モルデハイ・バヌヌへの刑は明らかな人権侵害」(2007年7月2日)
 イスラエルの下級裁判所がバヌヌ氏に6ヶ月の刑を下したことについての、アムネスティのプレス・レリースです。バヌヌさんは上訴する予定です。

バヌヌ氏の近況について(2006年11月25日)
 訳は主に金子郁子さんによるものです。

釈放2周年にあたってのバヌヌ氏からのメール(2006年4月20日)
 拙訳と原文を掲載しています。

2月22日の裁判についてのバヌヌ氏からの報告(2006年2月23日)
 今回の報告によると、かなり前からイスラエル当局がバヌヌ氏のメール等をチェックしてきたことがうかがえます。

2月9日の裁判についてのバヌヌ氏からの報告(2006年2月9日)
 今回の報告はバヌヌ氏の弁護人であるアビグドール・フェルドマン氏の主張が紹介されています。イスラエルの住民登録システムのいい加減さについての指摘があります。

1月25日の裁判についてのバヌヌ氏からの報告(2006年1月25日)
 バヌヌ氏に対してなされた起訴21項目についての裁判が始まりました。パレスチナ自治政府の選挙の日に審理の開始日を変更したというのも意図的と見なさざるをえません。

イスラエル法務省からの手紙(2005年12月2日)
 9月19日付の手紙が随分たってから届きました。なぜイスラエルがバヌヌ氏を自由にしないかの理由を述べています。拙訳を貼り付けています。

「いったい、ノーベル平和賞の状況は?」(2005年10月12日)
 時期が前後してすみません。イスラエルの平和運動家として著名なギデオン・スピーロ氏の文章です。国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイがノーベル平和賞を受賞したことについて、バヌヌ氏について書いています。

バヌヌ氏の釈放後の手記(2005年11月21日)
 とりあえず2日間の勾留で釈放されました。彼の手記の拙訳です。

バヌヌ氏、再び逮捕される(2005年11月18日)
 ハーレツ・コムの記事の拙訳です。いつまで彼に対する嫌がらせ、そして国際社会がイスラエルの核兵器を無視することが続くのでしょうか。

被爆60周年・広島市「平和宣言」の問題について(2005年9月19日)
 広島県原水禁前事務局長の横原由紀夫氏の文章です。イスラエルの核兵器について、現在の広島市の姿勢を問うものとして貴重な内容と管理人が判断いたしましたので、御本人の許諾を得て、ここに掲載いたします。バヌヌ氏のことにも言及されています。

バヌヌ氏の手紙、返還されず(2005年7月25日)
 刑務所長に没収された彼の手紙の返還を許可しないとの裁判所の決定です。ハーレツ・コムからの拙訳です。

ピーター・ホーナム記者から(2005年5月29日)
 5月19日の裁判についてのピーター・ホーナム氏によるサンデー・タイムズの記事です。

2005年5月19日の裁判について(2005年5月23日)
 バヌヌ氏より裁判についての報告がメールでありました。ニュースの出典が明らかでないのが、残念ですが、本人のコメントと共に拙訳を掲載しました。

誰がために鐘は鳴る(2005年4月23日)
 イスラエルの平和団体、グッシュ・シャロームの代表であり、元クネセット(イスラエルの国会)議員のウリ・アヴネリによる文章の拙訳です。今回のバヌヌ氏に対する制限措置延長に関して、及びバヌヌ氏の行為の意義についていろいろと参考になります。

制限措置延長に抗議するアムネスティの声明(2005年4月19日)
 延長措置に対する国際人権法に基づいたアムネスティの声明文の拙訳です。公式訳ではありません。

内務大臣がバヌヌの海外渡航禁止を1年延長(2005年4月19日)
 イスラエルのハーレツ紙の記事の拙訳です。バヌヌ氏に対する制限措置1年延長の正式発表です。

制限措置違反で裁かれるバヌヌ氏(2005年4月12日)
 ロイター電の記事の拙訳です。4月12日にあった裁判についてです。次回の裁判は5月19日とのこと。

「監獄国家にもう1年」(2005年4月12日)
 2005年4月11日にバヌヌ氏に、制限措置が更にもう1年続く旨の文書が届けられました。彼に対する裁判が始まる前日です。

バヌヌ氏がデイル・ヤーシーン村の犠牲者の追悼式に出席(2005年4月9日)
 デイル・ヤーシーン村とは1948年のイスラエル建国の際、パレスチナ側からすればナクバ(「災厄」という意味)の時にパレスチナ人に対する虐殺があった村です。イディオト・アハロノオト紙のウェブサイト記事からの拙訳です。

バヌヌ氏に対する起訴状と朝日新聞の記事(2005年4月5日)
 バヌヌ氏に対する起訴状に朝日新聞のインタビュー記事のことが言及されていました。ただ、起訴状の内容と朝日新聞の記事を比べて、イスラエル検察当局の勝手な解釈が目立ったので、このような文章を書きました。この内容は海外の支援者にも送信済みです。

バヌヌ氏の裁判が4月12日に変更となったとの連絡が4月4日に米国キャンペーンから入りました。午後3時からエルサレムのロシアン・コンパウンドでヒアリングが始まります。


バヌヌ氏の裁判が4月6日に(2005年3月28日)
 3月17日に起訴されたバヌヌ氏への裁判が4月6日との通知がありました。治安部門に尻をたたかれている司法当局の姿が表れているようです。

バヌヌへのホレフの執念(2005年3月23日)
 バヌヌ氏の自由を奪うことに最も執念をたぎらせているのがイヤヒル・ホレフというイスラエル国防省高官とされています。バヌヌ氏がなかなか自由になれない背景を、イスラエル諜報機関に詳しいヨッシ・メルマン記者が書いています。

バヌヌ氏、制限違反で起訴される(2005年3月17日)
 彼に加えられた制限が4月に期限切れとなりますが、その前に制限違反としてイスラエル当局は彼を起訴しました。BBCのニュースの拙訳です。

バヌヌ氏から日本へのメッセージ(2005年2月28日)
 日本の人々へのメッセージを依頼した所、このような返事が戻ってきました。メールの拙訳と原文です。ちなみに今年もバヌヌ氏はノーベル平和賞候補となっています。

バヌヌ氏、ベツレヘムでのミサへ行く途中で逮捕、勾留(2004年12月25日)
 当日の深夜に釈放されましたが、生誕教会でのミサに参加する権利も認められない彼です。

バヌヌ氏再逮捕から自宅軟禁へ(2004年11月11日)
 当日の晩に釈放されましたが、7日間の自宅軟禁となりました。

バヌヌ氏、逮捕勾留される!!(2004年11月11日)
 アラファト議長の死去に世界の耳目が集中している間の事件でした。

オノ・ヨーコからの賞の受諾スピーチ原稿(2004年10月3日)
 本人は10月7日にあるニューヨークでの授賞式に参加できないので事前に支援者へ送ってきました。

イランの核開発とイスラエルの核開発のトレード・オフは?(2004年9月17日)
 イスラエルの核開発は見て見ぬふりという米国政府の立場がまたしても出ています。

バヌヌ氏にオノ・ヨーコから平和助成金(2004年9月16日)
 ピューリッツァー賞を受賞したこともある米国のジャーナリスト、セイモア・ハーシュ氏と共に受賞です。

被爆59周年のヒロシマのためのバヌヌ氏のメッセージ
 世界の支援者に向けた彼のメッセージです。

イスラエルの原子力施設の危険性について
 バヌヌ氏が英国のアラビア語新聞のインタビューを受けてコメントしたものです。ヨルダンへの警告も含まれています。

運営担当のイスラエル訪問記
 もともと「パレスチナの平和を考える会」のニュースレター『ミフターフ』の2004年6月号に掲載されたものですが、広島の市民グループのウェブサイトにもアップされました。

ピーター・ホーナム氏の逮捕についてのアムネスティのニュース(2004年5月27日)
 彼が逮捕された時に偶々居合わせたアムネスティ職員からの報告を元にしています。

ピーター・ホーナム氏の逮捕・拘禁について(2004年5月27日)
 イスラエルの支援者、レイナ・モスさんからの報告です。24時間で釈放されました。

バヌヌ氏の身の安全
 4月末に米国キャンペーンから転送されたニュースです。解説だけですみません。

バヌヌ氏釈放直後のイスラエル各紙の報道 (2004年4月22日)
 (財)中東調査会による和訳でPDFファイルです。支援者とバヌヌ氏の祝賀会についても報じています。

釈放前日の支援者へのインタビュー記事 (英国紙「ザ・ガーディアン」2004年4月20日)
 いろんな支援者へのインタビューと共に、広島からの支援者へのインタビューも入っています。
 英文のままで御免なさい。

バヌヌ氏釈放に関連したアムネスティ発表国際ニュース (2004年4月19日)
 表題「モルデハイ・バヌヌの釈放に際し、いかなる制限や条件を課してはならない」

「バヌヌさんの釈放前に」−中東でヒロシマを繰り返さないために−
 (『ナブルス通信』 2004年4月19日号)
 英国・インデペンデント紙特派員、ロバート・フィスク氏の記事の和訳と拙稿です。



 
冒頭の2つについて広島平和文化センターの翻訳ボランティアの御協力に感謝します。他は主に運営担当の訳です。

モルデハイ・バヌヌ氏釈放のための米国キャンペーンのパンフ和訳

ビデオ「VANUNU」のスクリプト和訳

木村修三姫路獨協大学法学部教授による「イスラエルの核と中東の国際関係」の講演要旨

「イスラエルの兵器査察者」(英国紙「ザ・ガーディアン」2002年10月3日


ニューヨーク・タイムズ(2003年2月16日)に掲載されたオノ・ヨーコの詩
 (これは訳者が不明です。)


イスラエルから成人養子を連れ出す計画が頓挫(「スター・トリビューン」2004年4月12日)
 全訳でなく要旨と原文を掲載しています。

イスラエル市民権放棄を求めるバヌヌ氏(英国紙「ガーディアン」2004年4月3日)
 自らが自由になるための非常手段、と言うべきでしょうか。

ディモナ原子炉閉鎖を求める議案が上程される。(「マーリヴ」2004年3月15日)
 クネセット(イスラエルの国会)のアラブ系の議員たちが提出しました。

治安筋によると、バヌヌ氏はパスポート申請済み(イスラエル紙「ハァレツ」2004年3月10日)
 釈放後の展開についての見通しがコメントされています。

マズズ検事総長のコメントとバヌヌ氏の弟の声(イスラエル紙「ハァレツ」2004年3月9日)
 相変わらずバヌヌ氏に対する具体的処遇は不明ですが、弟さんの声が出ています。

バヌヌ氏の運命(イスラエル紙「ハァレツ」2004年2月25日)
 とりあえず釈放後の措置は決まったようですが、何が「適切」な方法なのかは分かりません。

バヌヌ氏の詩「ヒロシマ50年」
 詩心のない人間が訳したものです。どなたか改訳していただくと助かります。

モサド元長官へのインタビュー記事(イスラエル紙「ハァレツ」2004年2月5日)
 誘拐後、バヌヌ氏殺害の選択肢もあったことを述べています。

リビアの大量破壊兵器廃棄宣言とバヌヌ氏についての高知新聞のコラム(2004年1月19日)
 執筆者のような記者がいると励まされます。

下記は日本を含め世界中の国々で2003年6月28日に放映されたBBCのドキュメンタリー番組「イスラエルの秘密兵器」に関する記事です。このドキュメンタリー番組は2003年3月15日のヒューマン・ライツ・ウォッチの国際フィルム・フェスティバルでプレミア上映され、大きな反響を呼んだ後、英国内で3月17日に放映されました。この間、放映の1日順延もあり、政治的圧力に屈したのではないか、との憶測もあったようです。順延については2500件以上の抗議の電話、Eメールがあったそうです。この辺りの事情は「バヌヌ釈放のための米国キャンペーン」のニュースレター(2003年春号)の記事に基づいています。

イスラエルにおいて核兵器と化学兵器を語ることが依然としてタブーであることを感じさせる内容です。。ディモナの原子炉で働いていた労働者で、被曝の後遺症に苦しんでいる方が、「バヌヌのようになっていいのか!」と、秘密警察に脅されたことを伝え、BBCのインタビューを拒否するシーンがありました。また、2001年2月にガザ地区で使用された正体不明のガスによって、パレスチナの人々がもがき苦しむ姿は衝撃的でした。180人もの人々が被害を受けたとのことです。
この番組について御関心のある方は野間まで御連絡ください。

BBCの番組にイスラエルが抗議を検討中(イスラエル紙「ハァレツ」2003年3月14日) 

イスラエル、「偏向」報道のかどでBBCを締め出す(イスラエル紙「ハァレツ」2003年6月30日)

また、バヌヌ氏を支援するアムネスティひろしまの活動の様子は、米国キャンペーンのウェブサイトからもご覧になれます。バヌヌ氏が誘拐された9月30日に合わせて、世界の十数箇所の都市で行なわれてきたアクションに加わってきました。。英文のままでの御紹介(写真入り)になりますが、御容赦ください。下記をクリックしてください。

2001年9月30日のアクション(原爆慰霊碑前にて)

2002年9月29日のアクション(原爆ドーム前にて)

2003年9月28日のアクション(原爆の子の像前にて)

バヌヌ氏釈放活動関連リンク

●バヌヌ釈放のための米国キャンペーン

●バヌヌ釈放と中東非核化のためのキャンペーン(英国)


ユーリ・バンダゼフスキー教授が釈放されました!
 チェルノブイリの大惨事の実態調査と被害者救援を行なったために、ベラルーシ政府当局から睨まれ、8年の懲役刑に服役中だったバンダゼフスキー教授がついに釈放されました。こちらを御覧下さい。

エチオピア・アクションファイル

ひろしまグループは現在、エチオピアのアクションファイルを担当しています。おもにエチオピア国内のジャーナリストに対する人権侵害を対象にしています。

エチオピアは隣国エリトリアとの国境紛争が終結後、非常に政局が不安定になっています。
2001年4月17、18日には首都アジスアベバで大規模な暴動が起こり、少なくとも31人の死者、数百人の負傷者が出ました。

*現在詳細ページを準備中です。

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