木村修三氏(姫路獨協大学法学部教授)講演要録


 講演会:中東でヒロシマをくりかえさないために
            〜モルデハイ・バヌヌさんを知っていますか?〜



■日時:2001年7月29日(日)午後1時30分〜
■場所:
広島国際会議場3階・研修室2
主催:
(社)アムネスティ・インターナショナル日本ひろしまグループ
プルトニウム・アクション・ヒロシマ


■内容

ビデオ上映
 英国BBC番組「VANUNU」(25分・英語)

講演:「イスラエルの核と中東の国際関係」
  木村修三氏(姫路独協大学法学部教授)

●木村修三氏略歴
 1934年、青森県生まれ。参議院外務委員会調査室で約25年間、日本外交と国際問題の調査研究業務に従事。その間、1975年〜77年、外務省特別調査員としてイスラエルに滞在。1982年、神戸大学法学部教授。1998年、神戸大学を定年退官し、姫路獨協大学教授、神戸大学名誉教授。
 専門分野は軍事管理・軍縮問題と中東の国際関係。著書に「中東和平とイスラエル」(有斐閣,1991)、「なぜ核はなくならないのか」(共著、法律文化社,2000)など。




講演要録

木村修三氏(姫路獨協大学法学部教授)講演要旨

御紹介いただいた木村です。
私は国際政治学、国際関係論を専攻してきました。イスラエルの日本大使館にも2年ほど勤務していました。日本ではバヌヌのことは殆ど知られていないので、アムネスティの野間さんから連絡があった時は吃驚しました。

イスラエルが核兵器を保有しているということはずっと噂されていました。イスラエルのシナイ砂漠に続くネゲブ砂漠のディモナの核工場で働いていたバヌヌ氏は、57枚の内部の写真を撮りました。彼の動きを察知したイスラエルはモサドの女性諜報員を派遣し、彼をローマで拉致し、イスラエルで秘密裁判にかけて投獄しました。

フランク・バーナビーはバヌヌと面談し、1989年に「見えない爆弾」という本を出しました。またアメリカのジャーナリスト、セイモア・ハーシュはアメリカ国内のCIAなどの関係者から取材し、イスラエルの核開発についての本を書きました。
また、アヴナー・コーエンはイスラエルの歴史学者でしたが、イスラエルの核について研究をしていました。そのために当局からの迫害に遭い、1995年、アメリカに亡命しました。彼は1998年に「イスラエルと爆弾」という本を書きました。彼はこの3月にイスラエルに行った時も、治安当局にずっと尋問されたそうです。

このようにイスラエルの核は立証されてきたのですが、イスラエルは相変わらず核を持たないと言明してきています。イスラエルはクネセットという議会のある民主国家ですが、安全保障の問題についてはとても敏感です。
ディモナの周りは電気を通した鉄条網で囲まれており、一般の人は入ることができません。第三次中東戦争でイスラエルの空軍機がディモナの上空をうっかり通ってしまった時、ミサイルで撃ち落されたことがあります。また、外国の旅客機が撃ち落されたこともあります。その時には108名が死亡しました。

この3月、イツハク・ヤコブというイスラエルの核開発に長年関わってきた人物が、自叙伝を書く際に、核の問題について触れました。彼はイスラエルへ行った際に逮捕されました。イスラエルは核について極端な秘密主義をとっています。
100年前にシオニズム運動というものが起きました。この時期は世界各地でナショナリズム運動が活発化していました。ユダヤ人たちが2000年前の故郷パレスチナに戻ろうという運動です。なかなか成果はあがりませんでした。

しかし、第二次世界大戦でユダヤ人がナチによって大量虐殺されると、世界からの同情を集めました。しかし2000年前にユダヤ人がローマ帝国に追い出された後のパレスチナには、パレスチナ人がそこに住みつづけてきたのです。パレスチナの分割決議はアラブの憤激を買いました。1948年、イスラエルは建国されました。戦争がただちに起こりました。
初代首相のベングリオンはアラブ国家に取り囲まれた状況で、核兵器を持つことを決意しました。
イスラエルにはヨーロッパの社会主義に影響を受けたユダヤ人が多くいました。1956年のスエズ戦争ではイギリス、フランスと一緒にイスラエルは戦いました。原子力協力協定がこの時にフランスと結ばれました。そして、ディモナの核施設が作られました。

アメリカでケネディ政権が誕生すると、世界での核の軍事利用を警戒しました。イスラエルの核施設の査察を強く求めました。イスラエルは頑強に抵抗し、IAEAの査察を拒否しつづけました。妥協として、アメリカの査察だけは認めるということになりました。そして、イスラエルは巧みな隠蔽工作を行ないます。査察がある時は深い地下への階段をレンガで閉じたりもしました。この査察もニクソン政権ができてからなくなりました。イスラエルは年間40キロのプルトニウムを生産しているとのことが、バヌヌ氏の証言で分かりました。すでに200発の核弾頭を持っているということがわかりました。

600万人のユダヤ人が殺されたホロコーストがあります。ネバー・アゲインが国是となっています。抵抗せずに殺されるなというのが、イスラエルの安全保障観の核心となっています。ホロコーストを繰り返さないために原爆が必要だということです。歴史のアイロニーといえます。

イスラエルは公式には核の存在を認めていないにもかかわらず、その証拠が十分にあって、それにより他国に恐れを抱かせ、他国の行動を牽制する「不透明核抑止戦略」ととっています。また、「中東において核を導入する最初の国にはならないが、けっして第2の国にもならない」という一方的核抑止戦略もとっています。1981年にはイラクの原子炉を破壊しました。

イスラエルが実際に核を発射できるようにしたことが2度ありました。1973年の第4次中東戦争、1991年の湾岸戦争の時です。前者は外交的なものでアメリカとアラブを支援するソ連に向けたものでもありました。後者はもしサダム・フセインが化学兵器を使用したら、核を使用するつもりでした。

冷戦が終わってから、ソ連はアラブを支援することをやめます。また、移住の自由が認められ10万人以上のユダヤ人がイスラエルにやってきました。また、湾岸戦争のため、アラブ陣営が分裂してしまいました。アラブによってイスラエルが占領されるなどということは考えられなくなりました。多くのアラブの国はイスラエルを国家として認めました。

湾岸戦争後、中東和平のプロセスが始まりました。マドリード・プロセスからオスロ合意(1993年)への流れです。「軍備管理・地域安全保障」(ACRS)協議の際、イスラエルの核は大きな障害となっています。1994年に暫定自治が始まりましたが、ラビン首相が暗殺されるという悲劇が起きました。現首相のシャロンは1982年のレバノン侵攻時の国防相です。ベイルートでの大量虐殺にも関わってきました。ユダヤ教、イスラム教両方の過激派が勢いを持ってきています。より問題解決が難しくなってきています。

アメリカがイスラエルの核を見てみぬふりをするというのは、ダブルスタンダードです。イラクや北朝鮮については厳しいにもかかわらずです。インドの核もイスラエルを悪しき模範としたものです。
2000年のNPTの決議ではインド・パキスタンと並んでイスラエルの名前が入りました。アメリカの強硬な反対にも拘わらずです。

イスラエルだけが核を持っており、放置されているということは問題です。この脅威に対抗しようというアラブの国家が核を持つことは考えられます。
エジプトは「中東非核地帯化」構想を出しています。それに対し、イスラエルは完全な和平とのリンケージ、総体的軍備管理措置とのリンケージ、独自の地域的検証制度とのリンケージを条件として提示しました。これは実現できそうもない条件です。
バヌヌ氏の行動は評価されるものです。

(質問)
(Q)具体的にどう運動していけばいいのか。

(A)イスラエルは一枚岩ではありません。ただし、全体としては国防国家体制となっています。核が必要だというのが一般大衆の見方です。過激なのはアメリカからのユダヤ人入植者たちです。
バヌヌ氏に関しては裁判記録が部分的に公開されました。クネセットでも核についての議論をしようという動きがありました。

(Q)イスラエルは民主化されているのか。差別の問題は。

(A)イスラエルには憲法はありません。いくつかの基本法が憲法を構成しています。言論の自由は保障されていますが、国家の安全に関わる事には検閲が厳しい状況です。ユダヤ人とは何かというと大問題です。古代ユダヤ帝国では人種的にもわかるものでしたが、今のユダヤ人は混血がすすんで、すごく顔形が違っています。建国の基礎はヨーロッパ系のユダヤ人です。現在ではアジア・アフリカ系のユダヤ人の方が多くなっています。彼らの間には格差があります。アジア・アフリカ系の票がリクードに投じられたのです。実質的な差別はあります。
イスラエルの中の宗教対立が今後どうなっていくかが注目されます。




*その後もいろいろな質疑応答がありました。中でも広島出身の女性でイスラエルの男性と結婚した方が、イスラエルの状況をもっと詳しく知ってほしいと言われていたことが印象的でした。

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