BBC番組「VANUNU」スクリプト和訳


メイヤー・バヌヌ(モルデハイの弟)
この6年間、兄のモルデハイは狭い独房に拘留されて、孤独な監禁生活を送っています。彼はアムネスティ・インターナショナルが残酷だと言っている状況で、生活することを余儀なくされています。

そんなバヌヌのつらさを思うと怒りを覚えます。これから私たち全てに関わることについて真実を語ったバヌヌについて話をすすめます。

世界最初の核の人質(クレジット)

(1985年 ディモナ 再現フィルム)

1986年10月5日、モルデハイ・バヌヌの話が「今、明かされるイスラエル核兵器工場の秘密」という見出しで、サンデータイムズに公表されました。

バヌヌはネゲブ砂漠にあるイスラエルに原子力センター、ディモナで10年間原子力技術者として働いてきました。彼はイスラエルの核兵器製造の証拠を持って、6年前、イギリスに来ました。しかし公表の1週間前、彼は薬物を打たれ拉致されて、イスラエルに連れ戻されました。

極秘の裁判で彼は背信とスパイ行為の罪で18年の禁固刑を言い渡されました。

アンドリュー・ニール(サンデータイムズ編集者)
「彼の話が世界的な大スクープであることは疑う余地のないものでした」

「イスラエルが核開発能力を持っていて、核兵器を1年間にほんの数個どころか、大量に製造できる大変高度なものだということが立証された点で彼の話は決定的でした」

「彼の話からイスラエルは世界6番目の核保有国とわかりました。イスラエルがフランス、イギリス、中国と並ぶ核保有大国の一つだということが明らかになったのです」

しかし、イスラエルは核兵器を保有していることは決して認めていません。

シモン・ペレス(イスラエル首相 1984〜86)
「イスラエルは中東に核兵器を最初に持ち込む国とならないようにしてきました。その政策は今も昔も変わりがありません」

1987年7月のバヌヌの獄中からの手紙より
「核兵器に反対する最初の一歩は、政府が秘密にしたがる核兵器に関する秘密を明らかにすることです。私はわが国を代表して全人類のために公表に踏み切ることにしました」

1985年10月、バヌヌはディモナを去り、極東を数ヶ月旅した後、1986年の春にシドニーに着きました。バヌヌのリュックの中には、イスラエルの核兵器プログラムの証拠が入った2本のフィルムがありました。

バヌヌはこの機密情報を公表するつもりでした。

シドニーでバヌヌは国際的フリージャーナリストと自称するオスカー・ゲリロと会い、9月に彼はサンデータイムズに連絡を取ってくれました。ピーター・ホーナム記者は、バヌヌの話を調べるためにシドニーへ向かいました。

ピーター・ホーナム
「バヌヌは話の中で何ら条件付けはしませんでした。彼の真の関心事は、自分の話が公表されるかどうかでした。自分が下級技術者であったことを念頭に、自分の話が真実で、技術面でも正しいものだという確認を強く望んでいました。彼は下級技術者が知りうる以上のことを知ったかぶりする人物ではありませんでした」

バヌヌの話を調査価値があると確信し、サンデータイムズは彼をロンドンに連れてくるよう、ピーター・ホーナムに指示しました。ロンドンに着くなり彼はジャーナリストや科学者から質問攻めに会いました。

ホテルでバヌヌとホーナムとフランク・バーナビー博士はディモナの写真を検討しました。博士はオルダーマストンでイギリスの核兵器プログラムに6年間取り組んだことがありました。

フランク・バーナビー博士(核科学者)
「これは重水素リチウムの入っている圧力容器の写真です。これはイスラエルが水爆を製造するのに必要な物質を開発していることを立証するものです」

「これは水爆に関わる装置部品の一部を撮った別の写真です」

「これらの写真から二つの点を確信しました。まず、バヌヌの話から得られた情報が、プルトニウム再処理工場で働いていた専門知識を持つ人物からのものだということです」

「2つ目にこれらの写真が明らかに、核兵器工場の内部で撮られたものだということです」

「ディモナで働いたことのある人で情報を与えてくれた人は今までいませんでした。ディモナの工場で何年も働いてきた人物からの情報は、今まで知られてきたことに多大な信憑性を与えました」

バヌヌはネゲブ砂漠の一角に移民のために作られたベシェバという街でユダヤ流に厳しく育てられました。

彼は兵役を優秀な成績で終え、1976年、町から30マイル離れた原子力センター、ディモナで核技術者として働き始めました。この時、彼はベシェバ大学で哲学を学び、政治に興味を持つようになりました。

彼は政治デモに参加し、1982年イスラエルのレバノン侵攻に反対しました。

この頃、彼はディモナでの仕事に疑問を持つようになり、イスラエルの核兵器計画が国民に秘密にされたままで良いのかと思うようになりました。

イスラエルは核拡散防止条約に調印していませんし、核査察も許していません。

世界と国民に向けてのイスラエルの核兵器計画についての声明は長い間、嘘ばかりでした。

1956年、シモン・ペレス首相は、イスラエルのための原子炉建設の協定をフランスと極秘に結びました。

ディモナは繊維工場と言われていましたが、後に原子力研究センターとされました。しかし、バヌヌの証言でイスラエルがディモナの地下深く巨大な核兵器工場を建設していることが明らかになりました。

フランク・バーナビー博士
「イスラエルの核開発計画を調べている専門家の中には、数十個近い核兵器があると信じている人々がいました。しかしバヌヌからの情報で、核兵器の数は100から200、おそらくは150発程度と推測されました。また、重水素リチウムの製造を確認できたので、イスラエルは少なくとも水爆を開発中で、また極めて高度な核技術であるウラン濃縮とレーザー濃縮法も行っていたと考えています。イスラエルは威力の大きい核兵器を開発していただけでなく、想像以上に高度な方法で開発していたと言えます」

ロビン・モーガン(サンデータイムズの論説委員)
「30年間、イスラエルの核兵器は憶測しかできませんでしたが、決定的確証をついに手に入れたのです」

イスラエル政府とその諜報機関モサドは、バヌヌを何とか口止めしようとしました。また当時のペレス首相は彼の拉致を認めました。9月の最後の週にバヌヌがライチェスター広場を歩いていた時、シンディというユダヤ系アメリカ人と会いました。彼女は観光客の振りをして彼を信用させたのです。記者たちがバヌヌの情報を確認している間、オスカー・ゲリロはサンデーミラー社へ行きました。彼はサンデータイムズ紙に袖にされたと思ったのです。サンデータイムズ紙掲載の1週間前の9月28日、サンデーミラー紙はバヌヌは詐欺師であり、彼の話は作り話だという記事を掲載しました。

アンドリュー・ニール(サンデータイムズ編集者)
「これはまさに恥ずべき三流ジャーナリズムで、わがサンデータイムズの記事を無効にするため、そんな記事が出たのです。その後、信憑性はわかりませんが、サンデーミラー紙の当時の社主ロバート・マクスウェル氏とその関係記者は親イスラエル派だとか、イスラエル当局者がその記事に関係していたという報道が出たりしました」

ピーター・ホーナム(サンデータイムズ記者)
「サンデーミラー紙の記事はまた、あなたの兄モルデハイの写真を公開したため、彼の顔は大衆の知るところとなりました。シンディという女性は、バヌヌにもうイギリスでは表に出るのは危険だからと言って、イタリア行きを説得したのだと思います」

バヌヌがサンデータイムズ紙と接触してから6週間経ちました。自分の話がなかなか公表されないことに苛立っていました。サンデーミラーに記事が掲載された2日後、彼はもはやなすべきことは終わったと思い、ローマにいるシンディの妹のアパートに留まればという誘いに乗ってしまいました。サンデータイムズの記者たちがバヌヌを十分に保護していたかどうか大いに疑問が残ります。

ロビン・モーガン(サンデータイムズ論説委員)
「新聞の道徳的義務は出来る限りその情報源を保護することですが、力の及ばないこともよくあります。所詮、新聞社は記者の集まりですから、予算や専門知識をたくさん持った冷酷な諜報活動とは比べものにはなりません」

これから貴方が目にする映像は、刑務所に面会に行った際、兄モルデハイが教えてくれた情報をもとに再現したものです。

6週間の間、彼の行方も生死も不明でした。しかし諸外国の圧力の結果、イスラエル政府は11月9日、「バヌヌは現在、イスラエルの法の下に拘束中」と発表しました。

バヌヌがどのようにしてイスラエルに連れ去られたかは明らかになっていません。しかし、1986年12月22日彼は裁判所に連行される途中、自分の手に次のように書いて伝えました。
「バヌヌは1986年9月30日、ローマに英国航空504便で21時に到着したところを拉致された」
これがバヌヌが目撃された最後です。

ピーター・ホーナム、アンドリュー・ニール、ロビン・モーガン
「私たちは約1年かけて彼に同行していた女性をつきとめました。彼女の氏名、住所、そして顔写真も公表したのに、イタリア当局もイギリス当局も捜査しようとしませんでした。バヌヌが拉致されたことは誰の目にも明らかで、イスラエルも否定しませんでした。しかしペレス首相は上手に、当時のサッチャー、イギリス首相の顔を潰さないやり方を指示しました。つまり、うまく拉致は人目につかず、公式に認められることもなかったので、イギリス政府は何もする必要がありませんでした。これは言葉のあやです。彼の拉致に誰も疑問も持たなかったなんて間違っています。この国で誰も抗議できないまま、外国の工作員に拉致されるなどということはありえません。私の記憶ではイタリア政府はこの件について捜査はしましたが、「イタリアの問題とはいえない」といった曖昧な報告書を出しただけでした。国際外交の前では1人の人生や自由、権利などは何の価値もないのです」

バヌヌの記事は1986年の10月5日、失踪から1週間後、公表されました。公表を阻止しようとあらゆる手段を尽くしたにも拘わらずです。

イスラエルは彼を国家反逆罪、諜報活動、国家機密の暴露で告発しました。

裁判は極秘裏に行われました。イスラエルはバヌヌ自身の人格を貶めることで、人々の関心を問題の核心からそらしました。マスコミは、バヌヌは情報を売ったのだと報道し、核のスパイ、裏切り者のレッテルを貼り、彼がユダヤ教からキリスト教に改宗したことを、同胞への裏切りの証拠として利用しました。

(イスラエル市民の街角の声)
「もちろんバヌヌは裏切り者です」
「彼はイスラエルの軍事機密を敵に売ったんです」
「彼はスパイですし、対処法は閉じ込めることです。つまり入獄です」
「彼は裏切り者です。この男は裏切り者です」

バヌヌは自分の経験したことを公表することは一度も許されませんでした。

ヤエル・ロタン(イスラエルのジャーナリスト)
「イスラエル政府が身柄拘束を認めるのになぜ数週間もかかったかというと、状況を処理するのに時間が必要だったからです。その結果が史上まれにみる大芝居でした。裁判所までの護送車の窓を黒くつぶしたり、彼に顔まで覆うヘルメットを被せたり、幕を張ったり、法廷の窓を板で覆ったりしました。バヌヌ自身が爆弾で軍事機密なのです。これほど露骨な秘密裁判はありません。
そして大芝居はうまくいき、魔神を壺の中に戻すのに成功しました。機密性の高いことなら、それについて話をすべきでないと人々は思い込んでしまったのです」

ピーター・ホーナム(サンデータイムズ記者)
「イスラエルの裁判所の部屋はまるでイギリスの学校の教室のようです。書類も資料も法律書もほとんどありません。ここで大量の証拠が検討されているようには思えず、私は証拠を提出した後、裁判はでっち上げだと思いました。このような環境で公平な裁判が行われたとは誰も言えません」

アビグドール・フェルドマン(バヌヌ氏の弁護士)
「裁判所は安全保障問題について秘密にすべきかどうかは政府が最終的な審判を下すのだと述べました。このことは非民主的な国家に強大な権限を与えることになると思います。裁判所は彼の行為を金のためでも、国家への敵対行為でもないとし、思想的理由によるものと受け止めました。そして、裁判所は思想に由来するもっとも恐るべき犯罪を行なったナチス体制に言及した上で、変わった例を引き合いに出しました。民主的手続きが必要だと考える人がある一方で、裁判所は彼を思想犯として厳罰に処すべきだと述べたのです」

1988年3月にバヌヌは次の3つの罪により有罪とされ18年の禁固刑を言い渡されました。その3つとは反逆罪、諜報活動、国家機密の暴露です。

(街角の声)
「私だったら首を切るところだね」
「もうこういうことは起きないでしょうが、彼が受けるべき罰は死刑です」
「戦時にあっては民主的な国でも彼を死刑にするでしょう」

ヤエル・ロタン(イスラエルのジャーナリスト)
「イスラエルという国はワルシャワのゲットーやナチ占領下のヨーロッパやパリのユダヤ人社会の正統な後継者で、また絶えず危険にさらされてきたため脆弱だというイメージがあります。そのイメージは何としても維持しなければなりません。長い戦争の間、イスラエルは全然、ひ弱ではないことが証明されました。実際、イスラエルは周辺国家を打ち負かす力がありました。それでもそのイメージを維持しなければなりませんでした。それこそがイスラエルが海外の支持者やユダヤ・ロビーからの莫大な援助の基盤だからです。物質的、政治的、財政的援助、すべての理由はそこにあるのです。
イスラエルの人々もまた極めて厳しい生活をしています。何年も何年も男女とも兵役につき、税金はとんでもなく高いのです。イスラエルでの生活は楽ではありません。秩序をたもつため、絶えず国民に危険の淵に立っているのだと信じさせておくことが必要なのです。ただそのことは事実に反します。弱小国家はイスラエルがやっているようなことをするゆとりはありません。にもかかわらず、バヌヌの撮った写真を保管し、イスラエルが実際には核保有国であるという事実を秘密にしておかねばなりませんでした」

アンドリュー・ニール(サンデータイムズ編集者)
「イスラエルはかなりの規模の核を備蓄しているという明白な証拠がある一方、アメリカ合衆国の政策があります。それは核兵器拡散を防止し、そのルールを破ろうとするあらゆる国に制裁を加えるというものです。しかし、イスラエルはアメリカが他のどの国よりも援助を行なっている国であり、中東でアメリカともっとも親密な同盟国なのです」

ギデオン・スピロ(イスラエルの平和運動家)
「中東は今日、核兵器が絡む軍事衝突が活発化している唯一の地域なので、そこでの核兵器開発はもっとも深刻な危険をはらんでいます。アラブ世界が同様に核兵器を持つのは時間の問題ですし、このことは中東だけでなく全世界にとっても危険です」

1988年10月 バヌヌの刑務所からの手紙
「私は反逆者ではありません。私は深い信念から行動を起こした良心のある人間です。中東における核兵器の危険は紛れもない事実で緊急のものだということを示すため行動しました。私は敵陣に入ったことを理解しています」

アビグドール・フェルドマン(バヌヌ氏の弁護士)
「バヌヌはイスラエルに連れてこられた初日から独房に監禁されています。政府が言うに、彼は核兵器でなくイスラエルに連れてこられた方法に関して秘密扱いになっています。その秘密が暴かれないようにするために彼を監禁することが正当化されているのです。彼の独房監禁に関してはいくつかの手続きを取っています。われわれの論点は政府によって行なわれた違法行為を、その当事者が暴かないように監禁してしまうことは、類のないものだということです。独房監禁は人間にとって大変なことです。彼は強い人間ですが、健康が取り返しのつかないほど悪化しているのではと懸念しています」

ダフネ・デイヴィス(アムネスティ・インターナショナル職員)
「アムネスティが独房に長期監禁されていた人々に関して調査した結果、その影響は精神的にも肉体的にも大変深刻だということが分かっています。人々はめまいを感じたり低血圧、現実感の喪失を経験し、思考力の低下、ひどい鬱状態、不眠症、消化不良、神経問題などを引き起こしているため、私たちは彼をとても心配しています」

アシャー・バヌヌ(バヌヌの弟)
「アシュケロンにある刑務所への訪問は2週間に1度、40分だけです。私と兄は看守に取り囲まれ、彼らは私たちを監視し話をすべて聞いていました。彼に話しかける時、彼は普通の状態で答えることができます。彼は私たちが話していることすべてに論理的に話すことができます。しかし、一種の偏執狂になりつつあるように感じられました。人々は独房監禁は、人の心に取り返しのつかないダメージを与えるということを知るべきです。世界はイスラエル政府やハイメ首相への圧力を通じて何かをすべきです」

アンドリュー・ニール(サンデータイムズ編集者)
「もしイスラエル大統領がこの事件を終わらせるべきだという世論の盛り上がりを見て取るなら、バヌヌを恩赦にするでしょう。ペレス自身にとっても、イスラエルにとっても、バヌヌを今監禁しておく理由は全くありません。彼は釈放されるべきです」

ギデオン・スピロ(イスラエルの平和運動家)
「イスラエル政府にプレッシャーはかかっていません。イスラエル領事館のあらゆる場所で、イスラエル経済代表団のいるあらゆる場所で、組織的な運動が必要です。イスラエルの芸術団体が登場する所では、誰かが「バヌヌを釈放せよ」の横断幕を掲げるべきです」

バヌヌが静かな池に石を投げ込んだ波紋は、今後もイスラエルの社会に広がりつづけるでしょう。イスラエルの有権者たちは、「中東に核兵器が必要なのかどうか」と自問する日がやってくるでしょう。民主的な投票が行なわれる時、バヌヌの目的が果たされるのです。

バヌヌは今日で合計2205日を独房で過ごすことになります。アシュケロンの独房で彼は次のように書いています。「私の行動を理解してくださる方にお願いします。私を助けてください。私が釈放されるよう、貴方ができることをして下さい」と。
モルデハイ・バヌヌは私たちすべてのために行動を起こしました。その責任を分かち合い、行動をとるのは私たち次第です。皆様にバヌヌを釈放する運動を応援してくださるようお願いします。


1993年制作 英国BBC Open Spaceより