名前と呪
 呪をかけるとは、モノのあり方を縛る(固定化)とゆうことである。モノの根本的なあり方を縛る(現す)のは名前である。また目に見えないモノでも名をつけるとゆうことで縛る(固定化)することができます。この世で名づけられないものとは存在しないとゆうことになります。

 具体的には、山、海、樹、火などモノの名前、人名も呪となります。たとえば安部晴明は阿部晴明とゆう呪をかけられた人とゆうことになります。また、男が女を愛しいと想う、女が男を愛しいと想う気持ちそれに名前をつければ「恋」とゆうことになります。

 博雅は「恋と名をつけぬでも、男は女を、女は男を愛しいと想うだろう」と反論しますが、そう想う気持ちを「恋」と名付けられてるわけですから、これは本末転倒な反論ですね。

1巻P83-P85

  呪でモノを縛るのは、呪をかけた人ではなく呪をかけられた人です。博雅が金縛りにかかったのは、漢多太の「動くな博雅」の言葉を聞いて理解したからです。西遊記にでてきた、名前をよんで返事をすると吸い込まれ「ふくべ」もおなじ原理でしょう。晴明は本名を明かさずに呪を避けましたが、博雅が同じことをしても金縛りにかかったのではないでしょうか。

1巻P118-P121

形と呪
 「形もまた呪の一種である、形が似れば似るほど呪も強い」と晴明はいいます。一例を挙げて「人の形に似た石がある。それは石であるとともに、人という呪もかけられている石だ。ということは石の霊が、人の霊をわずかながら帯びることになる。」それを受けて「それが人の形に似ているからと、皆がその石を拝むことになれば、さらに強い呪をかけてしまうことになる」そして「時としてあやかしをしたりするのは、そんな長い間人に拝まれた石だな。」と結びます。

 今回の件も原因は写経のした中の一文字であった訳ですから、晴明のいう「長い間人に拝まれた」ものが「あやかしをした」という事ですね。(写経というのも元のものを写すという行為ですから写経したものにも呪力が宿るわけですね。)

1巻P175

平安京にかけられた呪
 平安京に呪がかれられていたとゆうのは、有名な話だったとおもうが。

 一番有名なのは、四神相応の呪でしょう。北には山があって玄武が棲み、東には川があって青龍が、西には大きな道があって白虎が、南には大きな池があって朱雀が棲む、このような土地がよいとされています。(まあ、日当たりが良くて、交通が便利で、水の利がある土地とゆうことでしょう。)平安京でゆうと、北の玄武が船岡山、東の青龍が鴨川、南の朱雀は巨椋池、白虎は山陰・山陽道とゆうことになります。さらに鬼門にあたる比叡山に延暦寺、北にはさらに貴船、鞍馬で封じてある訳です。

 さらに大内裏の門と門を結ぶと横4×縦5の升目になります、これは九字の呪法を意味します。九字の呪法とゆうのはもともとは、神山で修行する行者が護身にとなえる呪文であり、日本には密教の呪法として伝わっています。真言系の呪文は「臨兵闘者皆陣烈在前」として、天台系の呪文は「臨兵闘者皆陣列前行」となっています。この二つの違いは真言は攻撃的、天台は防御的とゆう違いがあります。陰陽道では「朱雀、玄武、白虎、青龍」の四神、「勾陣、帝台、文王」の神人、「三台、玉女」の星神の名前を唱えながら四縦五横の印をきる。こちらは悪鬼、妖怪をはらう呪文としてつかわれます。

 これだけ厳重に呪をかけてある訳ですが、実際は妖かしが横行し、災異も減らないばかりか増えていきます。これは九字の呪法がもともとは異層に行くための呪であるためだからです。この世界は目に見えない幾重もの層が重なって出来ています。CGやCADをやられている方は、レイヤーとゆうのをご存知と思います。考え方はこれと一緒と思って間違いはないと思います。普段は、人のいるレイヤーと鬼のいるレイヤーは交わりません。ただ、何らかの呪により出入り口が開いたとき、もしくは交わったとき異層に住むもの同士が顔をあわせることになります。この出入り口を開ける呪とゆうのが、九字の呪法とゆう訳です。

 ほかにも四つ辻は異界との出入り口にあたり、碁盤状に道路がある平安京には168ものそうゆう出入り口があるのだと晴明は言っています。

 つまり平安京は四神相応や鬼門封じで平面的に封じられているが、かんじんの平安京の中に鬼たちの出入り口があるために悪鬼悪霊が横行するのです。さらに悪いことに平面的に封じられているのですから、平安京から鬼たちは出られないのです。

2巻P47-P63