鋼騒妖異譚 プロローグ 『胎動』





 彼女は走っていた。
 逃げ出すために。
 何を考えるでもなく、ただ走った。
『早く逃げろ』
 自分を連れだしてくれた男の声が耳に残る。
『これを持って、逃げろ』
 渡されたのは、シリンダーの様なもの。
 中には本が浮かんでいた。
 これが何なのか、彼女は知っていた。
 これが彼らの元にあると、涙を流す人たちは際限なく増えていく。
 これが彼らの元にある限り、自分は逃げることが出来ない。
 だから、逃げた。
「早く・・・早く・・・」
 呪文の様に呟きながら、走った。
 ひたすらに。
 帰りたい。
 もといた場所に。
 楽しかったあの世界に。
 泣きながら走る彼女の足下を銃弾が穿った。
 為す術もなく、彼女は吹き飛ばされた。
 見上げれば、そこには──
 ヘリコプターがいた。
 しかしそれをヘリコプターであると断言してもいいのだろうか?
 機体を浮かせているのはローターではなく、翼竜の羽根。
 機体を形作るのは赤黒い甲殻類の身体。
 そして着陸脚とおぼしき、昆虫の足。
『バイアクヘーexp−2』。
 邪神の下僕と機械の忌むべき混血児。
 その機体−身体を、と言うべきか−を破壊する通常兵器は──無い。
「逃げなきゃ・・・」
 彼女は再び立ち上がり、走りかけたところで──
 再びすぐ横を穿った銃弾の衝撃で倒れた。
「・・・!」
 すぐそこに、異形がいた。
 コクピットに座るパイロットとガンナーの顔さえ見えるほどに、近く。
 彼らは、嗤っていた。
 為す術もない彼女を嘲笑っていた。
「おいおい、当てるなよ?『あれ』が壊れたら目も当てられない」
「当てやしないって。たまには楽しませろよ・・・」
 下卑た笑みを浮かべ、ガンナーは嗤った。
「・・・しょうがねぇなぁ」
 パイロットのそのセリフが終わるか終わらないかの内に。
 不意に、虚空から滲み出る様に、巨人が現れた。
 灰色の身体に漆黒の衣を纏った巨人が。
 巨人は懐から拳銃を取り出し──
 撃った。
 機体を貫き、爆発させるはずの銃弾は──機体を凍てつかせた。
 音もなく。
 氷結は機体を浸食していく。
 やがてヘリは墜落したが、爆音は無かった。
 ただ──砕けた。
 粉々に。
 氷像を地面に叩き付けたかの様に。
 彼女は自分を助けてくれた巨人を見上げた。
 巨人の胸が開き、そこから自分と同じくらいの年齢の少年が降りてくるのを、じっと見ていた。
「爆発させたらいい目印になる。だから氷結の呪印弾を使った。──怪我はないか?」
 少年を見上げながら、彼女は首を振った。
「あたしは大丈夫・・・・・・でも・・・・・・」
 自分を逃がしてくれた彼のことを思い、哀しそうな顔になる。
「彼は覚悟していた。お前が気に病むことはない」
 その少年はぽつりと呟くと、彼女を促した。
「早く乗れ。逃げるぞ」
 彼女はその言葉に促され、巨人の元に駆け寄った。
 そして一度だけ、来た道を振り返り──自分を逃がしてくれた男の冥福を祈り、眼を閉じた。
 少年は彼女の気持ちを思いやったのだろうか、急かすことはなかった。
「よし・・・行くぞ」
 少年は彼女を支えつつ、何らかの器具を少女の腕に押し当てた。
「心配するな。精神安定剤だ」
 不安そうな彼女に、少年はぶっきらぼうに告げた。
「目が覚めたら安全な場所だ。いい夢が、見られるといいな」
 その言葉が聞こえるか聞こえないかのうちに意識が途切れていく。
「待って・・・名前、教えて」
 崩れ落ちそうな意識の中、彼女はようやくそれだけを言葉にした。
「・・・今は眠った方がいい・・・」
 自分を眠らせようとする少年を押しとどめ、聞く。
「名前を・・・教えて」
 彼女は再び聞いた。
 少年は少し困ったような顔をした後、告げた。
 自分の名前を。
「俺は・・・相良。相良宗介」
「さがら・・・そうすけ・・・」
 彼の名前を呟くと同時に、彼女は気を失った。



「彼らがまた、動き出しました」
 静かな闇に、声が響いた。
「目的は──神託を受ける者の確保。彼らに『彼女』を渡すわけにはいきません」
 気配は、3つ。
 声を出しているのは、そのうち最も小柄な影である。
 柔らかなソプラノ。
 どうやらまだ若い女らしい。
 しかし、3つの影の中で最も存在感を発しているのも事実だった。
 彼女に帽子を被っているらしい影が尋ねた。 
「どう、なさいますか?」
「−護衛を付けます」
「・・・誰を?」
「特殊退魔師団所属。ソウスケ・サガラ軍曹。彼を」
「何故、彼を・・・?」
 3つの影のうち、一人が不審そうな声を発した。しかし、納得できていないわけではない。『なぜ、彼なのか』は既に解っている、そんな口振りだった。
「ひとつ。同じ日本人である。ふたつ。年齢も似通っており、潜入するには丁度よいでしょう。
みっつめは・・・まだ、言えません」
 一番小さな影は悪戯っぽく微笑った。
 帽子を被っているらしい影は溜息をついた。
 そして、最も精悍な気配を宿した影は──
 複雑な表情だった。


「と言うわけで、だ。ウルズナンバーの君達には護衛をして貰うことになった」
 マデューカス中佐は前触れもなく宗介達に告げた。
 急な任務に驚いたものの、宗介は敬礼し、答えた。
「はっ!」
 しかし、ウェーバー軍曹−クルツ・ウェーバー。宗介の友人と言えなくもない−は、文句を口にした。それもそうだろう。彼らは先日、危険なミッションを終えたばかりだったのだから。
「いきなりだなオッサン」
「私をオッサンと呼ぶなと何回言ったら解るのだね君は」
「じゃぁズラ。もしくはハゲ。あるいはロリコン中年」
「誰がズラだ誰がぁぁッ!それにロリコンだと!君は私を何だと思っているのかね!」
 いきなり激昂するマデューカス。
 そんな彼にクルツは黙って数枚の写真を見せた。
 途端にマデューカスの顔に脂汗が滲んだ。
「・・・オッサンでいいです」
「よし」
(くそ、ウェーバーめ。厄介な退魔を押しつけて口封じしてやる・・・)
 マデューカスから発せられる怨念のオーラに気付いたのだろう、クルツは楽しそうに告げた。
「ああ、馬鹿なことは考えない方がいいですよ中佐殿?」
 慇懃無礼である。
「自分に何かがあったら・・・あら大変だぁ、大佐殿のシャワーシーンを覗こうとしている中佐殿の写真が」
「わーわーわーわー!」
 敗北であった。
 しかしマデューカスはめげずに次なる策謀を巡らそうとした。
(フン。ならば元のデータを消せば良いのだ)
「ああ。それとデータを消そうとしたらそれだけで例の写真が大佐殿に届きますから。そのつもりで」
「すみませんほんの出来心です赦して下さい」
 完全なる敗北であった。
「・・・?何のお話ですか、中佐殿」
 今までその存在を忘れていた宗介が不意に口を出し、マデューカスは慌てた。
「な、何でもない!君には関係ない!」
「関係ないと仰られても、私の任務のことではなかったのですか?」
 拙い。
 このままだとこいつにまでばれてしまう。
「い、いや。当然では君たちの任務のことだ。今後のことについてウェーバー軍曹と話し合っていたのだよあっはっは」
 咄嗟にマデューカスは誤魔化した。
「・・・・・・」
 宗介はいぶかしむ様にマデューカスの眼を見た。
 しかしマデューカスは黙って脂汗を流すだけである。
「クルツ。そうなのか?」
 マデューカスに聞くのは諦め、宗介はクルツに聞くことにした。
「え?ああ、そうだな」
 必死の形相のマデューカスを見て哀れになったのか、それとも楽しみは後にとっておくことにしたのか──多分後者だろう──、クルツはマデューカスに口裏を合わせた。
「いやぁ、太っ腹デスね中佐殿!結構いいセーフハウスを用意して下さるそうで!」
 にや、とクルツの眼が楽しそうに笑う。
 獲物を前にした肉食獣の笑みだ。
「と、当然ではないかね今回の任務は重要なのだから」
 為す術もなくマデューカスは承諾した。
「その上対象の護衛のためなら武器弾薬は惜しまないとわ!いやぁ、素晴らしいデス中佐殿!私達はあなたのような上司の元で働けて幸せだなぁ!」
 あくまでもわざとらしいクルツ。
 マデューカスは背筋が寒くなるのを感じた。
 そもそも今回の任務では、トップは対象の護衛のためなら手段は厭わない、と言っていた。それをマデューカスが難癖つけて予算削減したのだが──クルツはその情報をどこかから仕入れたのだろう。
 自分から言い出したことを自分で撤回せねばならない。
 彼らは、彼女はどう思うだろうか?
「・・・サガラ軍曹、ウェーバ軍曹。後ほど詳細な情報を渡す。頼んだぞ」
 マデューカスは肩を落とし、今にも倒れそうな風情でふらふらと立ち去った。
「ふっふっふ。勝利!」
 クルツは高らかに勝利宣言を行った。
 それを宗介はじっと見て──
「・・・うむ。勝ったのかクルツ。それは何よりだ」
 やはり解っていないようだった。

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