忘れてはいけない

     もうすぐ「あの日」がやってくる・・・
     6月29日。 この日はにゃおの誕生日だ。 年を取ってゆくのはあまり歓迎できないことだけど、
     それでも誕生日に「おめでとう」と祝ってもらうのは嬉しい。
     結婚するまでは、家族の誰の誕生日の時でも必ず丸いケーキを奮発して、ろうそくを灯し、
     「ハッピーバースディ」の唄を歌った。 いつもよりは豪華な主役の好物の夕食が約束だった。
     結婚してからは、そんなささやかなイベントも出来なくなった。 主人がそういう類の事が
     キライだったからだ。 それでも自分で勝手に小さなカットケーキを買って食べるのが、
     せめてもの楽しみだった。 「あの日」までは・・・

     1999年(平成11年)6月29日(火)。
     とっくに梅雨シーズンに入り、雨がちの天気が続いていた。
     この日も朝からどしゃぶりの雨。 にゃお家は家の前が農業用水路。 横と後ろにも小さめの
     用水路と三方を川に囲まれていた。 9時を過ぎた頃からさらに雨足は激しくなり、
     家の前の用水路の水もみるみる、その水かさを増していった。 
     「このままでは危ない」
     そう直感したにゃおはすぐさま電話に飛びついた。 おととしも用水路が氾濫している。
     今回の状況はあの時よりも悪い。 ためらっている暇はなかった。
     電話が置いてある場所から見える裏の用水路。 すでに水がふちギリギリまで押しあがっている。
     この用水路は元は裏の田んぼに水を引くためのもの。 田んぼの持ち主が田んぼを作るのを
     やめてからは、こちらに水を流さないようにせき止めてあるはずだった。 なのにこの水量は
     どうだろう? せき止めたままだとしたら、この大量の水はどこからのものなのか? 
     事態は最悪の方向へ向かっている。
     「すいません! 家の前の用水路が氾濫しそうなんです。 すぐ来てください!」
     緊張でうまくしゃべれない。 電話の向こうで区役所の人の「はい、わかりました」との応答に
     ほんのわずか安心する。 受話器を置いて前の用水路を見に行く。 もちろん外へ出るわけには
     いかないから廊下から。 電話をしている間は10分くらいだったのに、もう水が溢れかかってる。
     区役所からどんなに急いでも家までは10分以上はかかるだろう。  どうしよう、どうしよう・・・
     どうすることもできなくて、前と後ろの用水路を交互に見にウロウロする。 なにもわからない子供が
     「どうしたの? ねぇ、どうしたの?」となんだか楽しそうにあとをついてくる。
     自分にも覚えがあるよ。 子供の頃って台風とか大変な時で親がオロオロしてるわりに
     それが楽しいことに思えちゃうんだよね。 思えば、あれって自分のすべてを親に依存していられる
     という絶対の安心感からくるんだろうな。 
     「お水が溢れちゃいそうなんだよねぇ。 どうしましょうかねぇ」
     心臓はドキドキ異常な音を立てて鼓動しているけど、つとめて明るく子供に応えてやる。
     裏の用水路はすでに溢れて家の敷地が浸水し始めていた。
     どうしよう〜〜〜!! その時、前の用水路の水も溢れ出し、田んぼへとなだれ込んで行った。
     田んぼはあんまり水が多いと畦(あぜ)が決壊するから、いつもは止めてある排水口を開けて
     水を排水させる。 今、その水を排水させるための場所から、水が逆流しているのだ。
     ダメだ! 田んぼはこのままじゃ、決壊するだろう。 でもどうすることも出来ない。
     今、下手に出て行っても自分が災害に巻き込まれるだけだ。 そうこうする間に水はますます
     溢れ、庭が浸水し始める。 三方の用水路とも溢れたのでは、もう水の逃げ場はない。
     せめて床下浸水はまぬがれたいのだけど・・・ 
     電話して30分が経っている。 たまらなくなって再びダイヤルした。
     「まだ、来ないんです! もう川が溢れて・・・ 助けてください〜」
     自分でも情けない声が出た。 半分泣いていたかもしれない。 あちこちで被害が出て
     人出が足らないのだという。 わかってる。 わかってる。 それでも電話せずにはいられなかった。

     やがて玄関のチャイムが鳴り、飛び出したにゃおの前にずぶぬれの区役所の人が立っていた。
     本当は土嚢(どのう)を積んだりする人たちが来るはずなのに、やっぱり他の災害現場に
     行っていて、なかなか来れないのだという。 申し訳ないけど、あなた一人ではなんの
     役にも立たないよ。 どうしたらいいんだろう? 区役所の人は溢れてる現状をチェックして
     なるべく早く人をよこすからと言い置いて去っていった。 
     水はさらに増え、玄関前の一段高くなったブロックのふちあたりにまで達していた。

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