忘れてはいけない  2

     ああ、もう駐車場にとめてある車のタイヤ半分以上が水に浸かっている。
     床下浸水は免れない。 と、思ったその時、心なしか雨脚が和らいだ。
     しばらくすると、ほんのわずかながら水量が減ってくるような気がした。
     例え水量が減らなくても降る量が減ってくれればそれだけでも大違いだ。
     止んで。 お願いだから雨止んで! 時計が1時過ぎを指し、お昼ご飯すら食べることを忘れていた。
     子供になにか食べさせなければ。 ありあわせのものを子供に差し出し、それを食べている間も
     なんどとなく外を見に行く。 空が少しだけ明るくなっている。 雨もずいぶん小降りになった。
     よかったぁ〜 よかったぁ〜 ふと見ると、どこから流れてきたのか、田んぼの中に
     いくつもの流木がある。 中の方まで入ってしまったものは取れないけど、畦(あぜ)から
     手を伸ばせば届くくらいのところはあとで回収しておかなくちゃ。
     にゃおはこの流木がどんな意味を持つのかすらわからず、単純に雨が止みつつあることを
     喜んでいた。

     2時半を過ぎるころには雨も霧雨のようなものがわずかに振る程度。
     日も射してきた。あれほど溢れていた水もかなり水量が減っている。 庭の水も引いたので
     にゃおは外へ出た。 見ると床下の換気口のわずか1センチくらいのところに
     水のあとがある。 ギリギリのところで床下浸水は免れたらしい。 ふぅ〜 よかった。
     にゃおはまだ、ごうごうと音を立てて流れる用水路を眺めながら、田んぼへ入り込んだ流木を
     拾えるだけ拾った。 向こうの畦(あぜ)は大丈夫だったかな?
     見に行ってみようかと歩き出し、家の横にある用水路の前に差し掛かった。 ふと見た用水路。
     水はない。 あれ? ヘンだな? でも何がヘンなのかわからない。
     背中ごしにサイレンが聞こえてきた。 パトカーが赤色灯をつけてこちらへ走ってくる。
     なにかマイクで言っているけどよく聞き取れない。 「・・・・・なので・・・ださい」
     え? 何? 
     「○○川が決壊しました。 この先は通行止めになります。 走行中の車両はただちに非難してください」
     川に沿って奥へ向かっていた車が一斉に、Uターンし始める。 パトカーはちょうど、にゃお家の
     田んぼの前あたりにある広場に停まってアナウンスを繰り返す。
     川が決壊? それは大変だなぁ・・・ と、再び用水路に目を転じた時・・・
     用水路の遠くのほうから、茶色いものが押し寄せてくるのが見えた。
     あれは何? と思う間もなくその茶色いものがドドドドドォーという轟音をともなって、
     にゃおの足元へ流れてきた。 水!! 逃げなくちゃ! ほんの1秒か2秒くらいの時間だった
     はずなのに、用水路から押し寄せた茶色い水は足首のあたりまで来ていた。
     玄関までのほんの10メートル。 すさまじい水の勢いに足を取られそうになりながら玄関の
     ポーチへ逃げ込んで振り向くと、さっきまで水が引いていた庭は再び水浸しになっている。
     家の前の用水路も再び氾濫し始め、横の用水路の茶色い水と混ざり合う。
     どこから流れてくるのか、まったく水路のない場所からも茶色い水がどうどうと流れてくる。
     あとから知ったことだったが、これが川の上流で起こった「土石流」だったのだ。
     流木があったのは上流で土石流が起こる前触れであり、用水路に水がなかったのは
     土石流が起きて、一時的に川がせき止められた形になったためだった。 そして圧力に
     耐え切れなくなった川は流木や石や泥など関を切って一気に押し流したのだ。 幸い、
     にゃお家のある場所は土石流が起こった場所からはかなり離れた下流に位置していたため、
     泥水が流れてきたくらいで済んだのだった。

     雨は完全に止んだ。 日も射している。 だけど用水路から溢れた水は一向に
     その水量を減らす気配がない。 川が決壊したのなら、水量が減ることなど不可能かもしれない。 
     三々五々人が集まり、氾濫した用水路を不安げに見つめるしかなかった。 土石流に混じって
     流れた流木やゴミが用水路が地下へ流れ込む入り口を塞いでしまって、思うように流れないのも
     水が一向に引かない原因のようだった。 平日の午後だったけれど、異常な天候に早めに
     家路についたのか男の人たちが集まってきて、用水路の口を塞ぐゴミを取り除こうとし始めた。
     しぶきをあげて溢れ返る泥水の中、深さ1メートル40センチはあろうかという用水路の中へ入って
     ゴミを取り除くことは危険すぎた。 それでもできるだけ安全な場所から少しずつゴミを取り除く
     作業が続く。 何人もの人がシャベルを手に右往左往する。 にゃおたち女性陣は引き上げられた
     ゴミを他の場所へ移動させるくらいしか役に立たない。 
     その合間、にゃおは田んぼの畦(あぜ)を見に行った。 そこには見るも無残な光景が待っていた。
     畦の2箇所が、ごっそりとえぐりとられたようになって崩れている。 植えて間もない稲が
     泥まみれになって下の田んぼへ落ちている。 田んぼにたまった水がその崩れた場所から
     流れてさらに侵食を誘い崩れた部分を拡大していく。 なす術もない。 もうダメだ。
     にゃおは午前中の雨が一番激しい時点で主人に電話を入れている。
     主人は仕事柄、すぐに帰宅できないと言う。 それも十分わかってた。 でもこんな時にいないなんて。
     よそのご主人はみんな奥さんからの緊急連絡で早退して、この作業に汗を流している。
     こんな異常事態なのに帰って来れないの? 多分、この現状を想像できないからだろうな。
     でも少しでも早く帰ってくれるといいのに・・・

     日がすっかり沈み、女性陣は各々懐中電灯を持ち寄って作業を続ける男性陣を照らす。
     口を塞いだゴミの中には流木もあればどこから流れてきたのか、植木鉢もあった。
     それらを取り除き、やっと水が流れ始め、あたりの水が引き始めた。
     歓声とも感嘆ともつかない声があがり、笑顔が戻る。 にゃおもちょっぴり泣いていた。
     自分の家の主(主人のこと)はいないのに、全然顔も知らないような人がにゃお家の
     裏の用水路の溢れているのも直してくれた。 いくら感謝しても足りないよ。
     その時、主人が帰ってきた。 「どうしたん(どうしたのか)?」と聞く主人。
     ばかぁ〜 今まで大変だったんだからぁ〜 みんなのおかげでなんとか水も流れるように
     なったんだぞぉ〜 ノンキにタバコなんかふかしてないでお礼の一言でも言えよぉ〜
     こういう時の主人は本当に大バカ野郎だ。 とうとうみんなに挨拶もしないでいた。
     馬鹿馬鹿馬鹿! 自分を何様だと思ってんのよぉ〜
     マジで後ろから何発もケリを入れたい思いでにゃおは、ご近所の人たちに挨拶をして
     その場を離れた。 にゃおたちの仕事はこれからなのだ。

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