忘れてはいけない  4

     翌30日(水)。
     疲れた体を布団から引き剥がすようにして起きた後、すぐにカーテンを開けた。
     薄曇りの空の下、改めてあたりの惨状が見える。
     なんじゃ、こりゃ〜〜〜 
     正直な気持ちだった。 主人が外へ来て見ろと呼ぶので出てみると、夕べの
     流れてきた車を見に行ってみようと言う。 野次馬根性もあったので長靴を履いて出た。
     庭は夕べの泥でベタベタで、とてもつっかけで歩けるような状態じゃなかった。
     どこから流れてきたのか、小枝や葉っぱやわけのわからないものが泥に混じって
     庭に流れ込んでいる。  ふと鼻をついた異臭をたどると、なんとトイレの浄化槽のふたが
     流れ込んだ汚泥で持ち上げられて、中身が辺り中に撒き散らされたようになっている。
     これはすぐに清掃業者の人に点検してもらわなくてはならないだろう。
     田んぼには流木があちこちに散在しており、まだ背丈の伸びていない苗をなぎ倒している。
     道路わきにはゆうべみんなで取り除いた、横の用水路からのゴミが積み上げられている。

     道路を渡った向こうにある川は幅が30メートル、深さが10メートル以上はあるだろうと
     思うくらいの大きさなのに、ふちまであとわずかの位置まで水位があり、ひどく濁った水が
     轟音とともにこれまで見たこともないような荒々しさで流れていた。 にゃおたちがいる
     すぐ上流の橋のたもとには、流木がからみついてさながらビーバーが木でダムを作ったかのように
     せき止められた形になっていた。
     目の前に白い乗用車がひっくり返った形で流れ着いていて、わずかに腹を水上に出していた。
     幸いこの車は道路に停めてあったものが流されたものらしく人はいなかったらしい。
     その脇にはなんと直径1メートルはあろうかという大木が引っかかっていた。
     車が流されたとされる地点は少なくともにゃおのところから3キロ近くはさかのぼった場所だ。
     これだけのものがよくここまで流れてきたものだ。 確かにこれじゃ、車を引き上げるのは
     無理だろう。 水が引くまで車の撤収作業は見送られることとなったらしかった。

     日中は、なんとか雨の降らない日だったので、どこの家でも災害の後始末に余念がない。
     にゃおもほぼ一日中を庭の汚泥を取り除く作業に費やした。
     上空をテレビ局や市などのヘリコプターがパタパタと音を立てて一日中飛び交った。
     道行く人とは、まったく知らない人同士でも「大丈夫でしたか?」「大変でしたね」の
     言葉を掛け合った。 それは奇妙な一体感だった。
     作業の手を休めて大きな息を吐き出した時、昨日が自分の誕生日だったことを思い出した。
     昨日の朝までは覚えていたのにな。 いつもだったら母が電話でおめでとうと
     言ってくれたのに・・・ 生まれて初めて、誰からもお祝いの言葉をもらわないままで
     誕生日が過ぎちゃった。  家がとりあえず無傷に近い状態で命も助かったのに
     こんなことを考える自分ってなんてあさましいのかな? それでもすっかり忘れられた誕生日が
     さみしいようで悲しいようで悔しいようでたまらない。 あの時ぬぐったのは汗だったかな?
     それとも涙だったのかな? 今はもう思いだしたくない。

     その日の夕方。
     天気予報は再び梅雨前線の活発化により、大雨の恐れがあるとの発表を出した。
     昨日の激しい雨で地盤が緩み、川の水は増水したままなのにまたあんな雨が降るのか?
     今度はどうなるんだろう。 今度こそはにゃおたちも無事では済まないかもしれない。
     暗闇の中、耳を澄ませ、雨音が聞こえてはこないだろうかと神経を張り詰めながら
     ろくに眠れないままで夜が更けた。

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