忘れてはいけない  6

     一番大きなスポーツバッグに子供の2日分くらいの下着や着替え類を詰める。
     湿度が高く蒸し暑い。 そうでなくても避難場所の体育館は湿気と人の体温とで
     汗をかくに違いなかった。 貴重品。 大人の下着。 身の回りを整える洗顔や
     歯磨きセット。 懐中電灯。 子供が退屈しないように一冊はお気に入りの本も・・・
     入る余裕があるなら余分にタオルやポケットティッシュも。 絶対に忘れてはならないのが
     子供のオムツ。 まだオムツが取れていない子供は普段は布オムツをしているけれど
     それじゃ、避難生活は出来ない。 夜に寝る時用の紙オムツを1パック持っていこう。
     きっと避難所にも用意してあるだろうけど、枚数が足りないだろうし、違うメーカーだと
     かぶれてしまう。 他にはえ〜と・・・  そうだ! 避難することを知らせておかないと!
     主人の携帯に電話をかけて、避難することを告げる。 帰って来る時は家ではなく、
     小学校の方へ来るようにと伝えた。 実家の母の仕事先へ電話をして呼び出してもらう。
     こんな時に限って、なかなか出て来ない。 イライラと指先が机を叩く。
     「どうしたん?」という母の声はひどくのんきに聞こえた。 それもそのはず、実家の方では
     雨はひどかったものの、これといった被害がどこにも出ていないのだという。
     にゃお地域に避難勧告が出たのでこれから避難するということを言うと、ひどく驚いていた。
     これで連絡はいいだろう。 あとは?
     と、電話が鳴る。 誰? 
     「もしもし? 新聞で見たんだけど、そっちの方、大変だったんだね」
     友達が新聞の記事を見て、にゃお地域だと気がつき、心配して電話をしてくれたのだった。
     家族も家も今のところ無事だけど、これから避難しなくてはならないので・・・と
     せっかくの電話もそこそこに切ってしまった。 気持ちに余裕がない。
     避難している間にまた土石流が押し寄せるかもしれない。 今度は先の土石流で
     貯まった倒木や石が一緒に流れてくるだろうから、もっと実質的な被害が家に起こるかもしれない。
     だったら少しでも、被害を少なくしたい。
     一階にある荷物の中でノートパソコンなどの大切なものは二階へ持っていった。
     床上浸水になってもなんとかなるように、その他の物は出来るだけ高い場所へ置いた。
     リン・・・・ 電話だ。 今度は誰?
     「あ、○○ちゃん? わしやけど(僕だけど)、そっち大丈夫なん?」
     隣りの区に住む年の離れたイトコだ。 同じように心配で電話をかけてくれたらしい。
     「ごめんなさい、今避難勧告が出ててその準備中でもう時間がないんです」
     半分も相手の言葉を聞かずに受話器を置いてしまった。
     時刻は12時半。 避難勧告を言い渡されてから1時間半も経っている。
     最後に戸締りと火の点検をして、雨が小降りになった隙を見計らって子供を車に乗せると、
     にゃおは大きな水しぶきをあげながら避難場所の小学校へと向かった。

     小学校へは川沿いに上っていくルートが早い。 道路が閉鎖されているのは
     ちょうど小学校へと左折する場所だった。 家を出てすぐに目に飛び込んで来たのは、
     川向こうの山で起こった土石流の様子だった。 そこで知ってる人が亡くなった。
     その人の裏山で土石流が起こり、家ごと流されたのだ。 すでに何台ものショベルカーが
     入って泥や瓦礫を撤去する作業をしており、わずかに蔵だけだポツンと残っている。
     川のこちら側の歩道には何人もの人が疲れた表情でその作業を眺めていた。
     川にかかるどの橋のたもとにもおびただしい量の流木が引っかかっている。
     あれを取り除くのにどのくらいがかかるのか想像もつかない。
     道路が閉鎖された先は一体どうなっているというのか? 閉鎖用のゲートの前では
     警備のおじさんが旗を降って左折するように指示を出している。 この先にある団地へ
     向かう車だけがゲートを開けて通ることが許されているようだった。

     体育館に入ると、そこには自分がテレビのニュースで、そして新聞で傍観していた風景があった。
     受付で自分たちの名前や地区名を記入して避難者名簿を作る。 それから毛布を一枚渡された。
     その毛布を空いたスペースへ広げて「自分の居場所」を構える。 誰もが少しでもプライバシーを
     守りたいと思うのか、壁際はすでにぎっしりと隙間のないくらいに毛布が広げられて
     何人もの人が気だるそうに寝転がっている。 恐らく29日から避難している人たちなのだろう。 
     子供が異様な雰囲気に興奮していた。 子供にとっては初めての経験。 しかもいきなり
     こんな大勢の人たちと慣れない場所。 無理もない。
     拡声器でボランティアと思しき人がパンの差し入れがあるので取りに来てくださいと言っている。
     3つづつ入ったパンの袋と缶のジュースを2本ほどもらうと自分の場所へ戻り、子供と食べた。
     お昼ご飯もまだだったんだ・・・ 普段、菓子パンなど食べることのない子供が美味しいと
     目を輝かせてクリームパンを頬張っていた。 ひととき慌しい時間が過ぎると、妙な空白が訪れる。 
     何もすることがない。 本なんか持ってこなかったし、ゲーム機なんかもない。
     ぼんやりと子供がうろつくのを見て、遠くへ行くと連れ戻す。 そんな繰り返し。
     隣に場所を構えた人たちは2家族が一緒に避難しているらしく高校生くらいのお嬢さんが3人いた。
     誰ともなく子供に話し掛け、いつの間にか子供の遊び相手になってくれている。
     彼女たちは昨日から避難しているらしかった。 
     まぶしい光が目を直撃し、その方向へ意識を向けると、どこかのテレビ局が取材に来ている。
     避難している人たちにインタビューを取って歩いているのだ。 よく見ると体育館の外から
     望遠レンズを向けている人もいる。 あれもテレビ局の人なんだろうか?

     「おう」と声がかかった。 振り向くと主人が立っている。
     時刻は4時過ぎ。 仕事が終わる時間じゃない。 早退させてもらったのだと言う。
     この間のことが少しは気になってたのかな? まぁ、なんと言っても家族が「避難」しているのに
     ノンキに仕事をしている方がおかしいだろうけど・・・ 子供が一目散に主人に向かって走り寄る。
     よかった。 これで動きやすくなった。 主人がいれば子供を気にしないでいろんな物資も
     取りに行けるし、トイレも行ける。 子供や荷物を残しておくのが心配でトイレを我慢していたのだ。

     ほどなく夕食用の弁当が配られ、早めの食事が始まる。
     7時のニュースが体育館に設置されたテレビで流れ始めると誰もが吸い寄せられるように
     テレビの前に集まり出した。 
     「ちょっと天気予報を見てくるね」  にゃおも立ち上がって歩き出す。 
     雨がまた降り始め、体育館の金属の屋根でかすかに演奏を始めていた。

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