屈辱のもらい水(前編)

     いつもなら、当直を交代して、すぐに帰ってくれば9時半頃には家に着く。
     ところが、いつまでも主人が帰って来ない。 時刻はすでに10時を過ぎようとしている。
     田んぼには水がわずかしか入っていない。 どう見ても田植えが出来そうな感じじゃない。
     ヤバイな・・・どうしたらいいんだろう・・・
     にゃおは田んぼの水に、ちょろちょろ・・・と入る水を眺めながら途方に暮れた。 田植えするにも
     水がないんじゃ、どうしようもない。 でもどうしたらいいんだろう?

     にゃおの目の端に何かが映った。
     ハッとして注意を向けてみると、にゃお家の田んぼから、少し離れた場所にある田んぼに
     人がいる。 その田んぼは、にゃお家の田んぼよりも低い位置にあるんだけど、水路は
     大川の方から直接引いているところだ。 すでに先週の日曜日に田植えが済んでいて
     どうやら、捕植をしている様子だった。 平日に捕植をしているのは奥さんだろう。

     もしかして!!
     にゃおは田んぼの畦(あぜ)を走るようにして、水を入れている場所とは反対側の排水口の方へ
     向かった。 排水口が面している水路は、その田んぼが水を引くために作られた水路だ。
     そこへ着くと、勢いよく水路を水が流れて、捕植をしている田んぼに引き込まれていた
     やっぱり・・・ ということは、大川からの水は今、にゃお家方面には流れないようにせき止められて
     いるってことなんだ。 もしもこの水を少しでも分けてもらえたら、今よりも田んぼに水が入る。
     だけど、他所の田に入れている水を分けてもらうっていうのは、暗黙のルールに反することなのだ。
     他所の田が入れていて水がない時は、我慢して水が来るのを待つのが礼儀なのだ。
     だけど、待ってたら、いつ流れてくるかわからない。 だって、今日は快晴なんだもの。 水は
     ちょろちょろでも入れておきたいだろう(蒸発してなくなるから)。 でも、その人の田んぼには
     もう水が満々と入っている。 ちょっとくらい・・・なんとかならないかな。 非常事態なんだもん。

     にゃおは、また家の方へ戻った。 しばらくして見ていると、捕植が終わったのか、奥さんは
     田から上がると、自分の家の方へと歩き出した。 今しかない。 今しかチャンスはないんだ。
     にゃおは再び、走るようにして、ぐるりと道を回って、奥さんの方へと急いだ。 家に入られては
     マズイ。 急がなくちゃ!
     幸い、奥さんは大川から自分の田んぼへと水を引く水門のあたりで、泥だらけの足を洗って
     いるところだった。 にゃおは急いでいたのと、緊張とで心臓がバクバクと大きな音を立てていた。
     何度も胸の中で、奥さんに言うべき言葉を反芻する。 できるだけ低姿勢にいかなくちゃ。
     「すみません・・・」
     にゃおは奥さんに向かって声をかけた。 今日、田植えをしたいこと。 でも水が足りなくて
     このままでは田植えが出来そうにないこと。 とても失礼なことだけど、今、奥さんの田んぼに
     引いている水を少しでもいいから、にゃお家の田んぼの方へ流してほしいこと。
     しつこいくらいに「本当に申し訳ないんですが」というセリフを繰り返した。

     奥さんは、ちょっととまどっていた様子だったが、しばらく考えて、今は完全にせき止めてある
     部分を少しずらして、にゃお家の方へ水を流してもよいということ。 そして、あと1時間くらい
     したら水を止めるつもりだったけど、30分で水を完全に止めて、にゃお家の方へ流してもよい
     いうことを言ってくれた。 さらには、用水路の水そのものの水量も少ないみたいだけど、
     それは大川から、こちらへ水を引き込む水門の開き具合が小さいからだと思うから、水門を
     もう少し開けたら、それだけたくさんの水が流れ込むはずだということも教えてくれた。

     にゃおは、「ありがとうございます」を繰り返し、何度も何度も奥さんに頭を下げた。 この際、
     田んぼに水が入るなら、頭を下げることくらいなんでもないことだった。 にゃおは水を分けて
     もらう代わりと言ってはなんだけど、30分したら自分が水を止めておきますからと奥さんに告げ、
     今度は大川の水門へ向かって、走り出した。

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