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新宮神社 |
川尻の秋祭りの変遷
川尻の秋祭りは長い歴史があります。
江戸時代には、村の大きな年中行事になっています。
文政11年(一八一九年) の国郡誌には次の様に記されています
八月十九日 大歳明神の神輿和田埠頭へ出御 先備 幟 榊 猿田彦鉾 御幣
神輿 社人 役人 長百姓 笛 太鼓 戸拍子惣供
九月九日 新宮大明神の神輿鳥居の濱より御乗船 和田の波止へ御揚陸
大歳社へ御即日還御 行列大歳明神御祭礼ノ通 村中軒別餅ヲ搗キ生大
神備へ因の人へ贈ると
この祭礼が明治・大正・昭和・平成と継承され、
様変わりしたこともありますが今日に至っています。
大歳神社(東の宮) の祭りを「八月祭り」新宮神社(西の宮) の祭りを
「九月祭り.と親しまれ、旧暦の呼び名なのでそれぞれ一カ月遅れの
九月二十日、十月十日
祭りが平日に当たると学校は早めに切り上げていました。
その後、祭りは(土) (日)にすることになりました。
西の宮の 「奴っこ道中は,昭和の初め頃、東の宮の 「おどり」は
終戦後に始まりました。
これを機にして秋祭りは大いに盛り上がりました。
新宮神社の由来
祭神 イザナミノ命
相殿 コトサカオノ命 速玉男命(ハヤタマオノミコト)
新宮神社の由緒 昔、宮司が九月六日、七日、八日と三夜続けて
同じ夢を見たそうです
『われは熊野新宮の神なり、当浦の江の川上に本宮権現大神鎮座あり、
然るに太田命の導きによって、この郷に天降った。
居して永く守護神になる』という夢の通り
九日に江の川で女帝のご神像が発見されました。
江戸時代の初め、元和二年(一六一六年) 九月に宮司の持山の
亀甲山に神殿を建て川尻村の産土神として九月九日を祭礼日に定め、
江の川の須崎まで御幸神祭りを行なわれました。
村は繁盛していましたが、集落から遠く不便な為、
慶安四年(一六九三年)塚城山(今の祇園さん) に移されました。
ところがそれから 農作物は不作、漁業は不漁し疫病も流行し、
度々の火災等も発生し困難を極めました。
困った村人達は占いをして貰ったところ、
これは社を勝手に昔の墓地だった塚城に移した祟りであると告げられました。
そこで元禄六年(一六九三年)に、 元の場所の亀甲山に
戻しました。御本殿、拝殿を作り、
厳島の僧の東泉坊を雇って、遷宮神事が執行されました。
それ以来、村は大漁・豊作に恵まれ賑わい繁盛しました。
新宮大明神の御神徳と喜ばれました四、新宮神社の九月祭り
昔の祭り は居祭り(いまつり) でした
居祭りとは、神輿の巡行はしないで懸装品を披露する祭りです
・江戸時代の祭り
神輿は元禄12年一六九二年 大阪から購入しました。
祭りは東泉坊が還座祭の祭主の為、宮島の管弦祭の様式でした。
新宮神社のイザナミノミコト(女神)が、大歳神社の大歳大神(男神)
に会いに行く為に御座船(農耕舟を三艘並べ角材でつなぎ
座板を敷いて六メーター四方にした船)に
神輿を乗せました。船の四隅に笹竹、幟、吹き流しを立て、
天幕を張り、左右と舳先に幔幕
を張り四方に菊を飾りました。又、 三艘の舳先には
それぞれ飾り物をつけていました。
御座船を引くコギ船(釣船)は、四艘でニ艘ずつ森地区と小仁方から出し、
一艘は四丁櫓でこぎ手は十人が交代でしました
文政2年(一八一九)の国郡誌に、記載されています。
祭日は九月八日から九日まで
九月九日
新宮大明神神輿、鳥居ノ濱ョリ御乗船 和田ノ波止(御揚陸、大歳社
〈御幸 即日還御行列大歳明神御祭礼ノ通 村中軒別餅ヲ搗キ生大神備(因ノ人
〈贈ル と
・明治、大正、昭和初期の祭り
江戸時代の船渡御の祭りを引き次いで実行されました。
二艘の石船(揺さぶり舟)と奴っこ道中が、新しく加わりました。
しかし、船渡御で一行を乗せる大漁旗をつけた石船(揺さぶり船)
二艘が随行した
奴っこ道中が、何時から始まったかは、記録にありません。
時期不明ですが、奴っこ道中は、音戸町の清盛祭りの
大名行列の指導で始まりました。
又、昭和三年(一九二八年)の昭和天皇の即位大祭の為に、
動きが大きい仁方の奴っこ踊りを取り入れ、
トコセ踊りも指導を受けました。
九月祭りの構成は左記の様子でした。
(奴っこ踊り) 29人の青年団
トコセ 四人
台傘 一人
立傘 二人
大鳥毛 二人
奴っこ 二十人
・(笛・太鼓) 笛吹十二人、太鼓叩き三人で、青年団の役目
・(ダイバ (ガリ)) 赤鬼一人、白鬼一人。 よごろは一般の希望者、
当日祭は青年団。
・(神輿守) 八人 二十四歳の厄年の若者から選びました。
・(御座船) 神輿、宮司、森郷長と世話人、 氏子総代、
青年団長などが乗られました。
・(漕ぎ船) 御座船を引く漕ぎ船は、釣船を森地区から
二艘か三艘、小仁方地区から二艘。
・(揺さぶり舟) 石船を二艘借り、ダイバ(ガリ)の赤と白
が分かれ、青年団も船に乗りました。
・(幟) よごろ早朝、氏子総代が境内と宮の浜に、
青年団が森会館に立てました。
・(奴っこ道中) 郷長、世話人、青年団、踊りのメンバーが、
寄せ太鼓を合図に集合し
ダイバ(ガリ)が先触れでトコセ・台座・立笠・
大鳥毛・奴っこが行列し町中を歩きました。
・(道中の道順) 森会館、消防屯所、現在の福祉センター(元の役場)
、渡辺さん宅前、中央町の
稲田酒店前から川尻駅に行き、森会館に戻りました。
・(新宮神社境内) 奴っこ踊りの奉納
・(神事) 宮司が神事をして、ご神体を神輿に遷座し
石段を下りました
・(渡御) 宮の浜で、お祓いし神輿が御座船に移りました。
宮司、総代、笛・太鼓の四十人位が
乗り、行きは太鼓を左手に据え、
郷長が出発の指揮をしました
中央の舳先で御幣をかざし
、
『一同、立ちませ。これから江戸三百里』
と合図する
と、太鼓が勇ましく叩かれ、笛も吹かれ、
御幣が振り下ろされました。
すると、四艘の漕ぎ船が一斉に漕ぎ出し
沖に進みました。
漕ぎ船が進み、御座舟は引っ張られ前に進みました。
続いて、ゆさぶり船の一 一艘は、大漁旗で飾られ
、
ダイバ (ガリ) の赤と白
奴っこと子供たちも、分かれて船に乗り、
船を左右に揺さぶりながら和田崎に向かって
進みました、
川尻沖の海上を渡御した御座船の一行は
和田アに到着しました。
・(町辻のお迎え) 和田アの波止場に、町辻が、
お迎えの幟と吹き流しを立て、
提灯を持って迎えました。
神輿を先頭に岸にあがり、隊列を整え、
笛・太鼓の音と共に、大歳神社に向かいました。
大歳神社で、笛・太鼓、奴っこ踊りなど奉納し
一連の行事を終えます。
・(還御) 大歳神社を後に和田崎に戻り、船に乗り、
御座船の太鼓は行きと反対の右に据え
郷長の一振りで太鼓を叩き船は岸を離れ、
海上を進み、今の川尻支所の沖で
大きく三回廻って、宮の浜に帰りました。
宮の浜では明々とかがり火が垂れていました。
神輿は下ろされ、新宮神社に還ります。
ご神体は神殿に納められ、祭りは終わりました。
・昭和時代 戦前から戦後の成長期の祭り
・祭りを行う組織は、森郷長の下に森郷総代(森郷全般の世話をする)と
氏子総代(神社の催事・管理する)と森青年団(祭りの行事の実行役)
があり分担して遂行しました。
・船渡御が宮の浜から森の波止場に変更され、渡御したのは
昭和二十一年からでした。
・漕ぎ船は、・御座船は、采配船を先頭に、続いて二艘、
神輿、笛・太鼓に宮司、森郷役員、氏子総代などが乗り
三艘の船(宇都宮さん、小仁方の人、由見さん)をつないでいました。
・お駕籠は、最初はお姫様でしたが、いつからかお殿様と
お供が乗り殿様船になりました。
・ゆさぶり船は、石船で宇都宮房太郎さんの正栄丸
朝日丸、第五朝日丸、百々さんの耕作船、
銭谷隣さん、銭谷馬喰さんの船などで
時に三艘も四艘も出ましたが、二艘が通常でした。
奴っこが乗り、船を揺さぶりながら前に進んで行きました。
奴っこは船の帆柱より張られた四本のロープを持って
船を揺さぶりながら伊勢音頭を歌いながら前に進みました
。
ゆさぶり船は多数の漕ぎ船に先導されていました。
船の出発時刻は、 二週間前頃に満潮時刻を考慮して
青年団の幹部が決めてました。
船団は、今の森の波止場から出発して
和田崎(今の保健センター) の所に着けてから大歳神社まで
歩いて行きました。
船団の航行は、勇壮で、今の川尻支所の沖くらいで、
揺さぶり船を左右に揺さぶり
ながら、三回廻す時は迫力があったようです。
当時は道路に人だかりが出来て、皆、楽しんで観ていました。
・祭りの行程は
新宮神社に集合し笛・太鼓を先頭に、奴っこ道中は町を
歩き踊りました。
奴っこ踊りの指導者は、青年団の主だった幹部の人でした。
奴っこ道中は、森会館を午前十時頃に出発して、
今の福祉会館(旧役場)・川尻駅を経由して新宮神社に
帰る道のりでした。
奴っこはダイバ (ガリ)を先頭に、道中歌を歌いながら歩き、
中央町、川尻駅前の三カ所で踊り、踊りを披露しました。
それから、午後二時頃、御座船に神輿を乗せ、
漕ぎ船が四丁櫓で引き出港しました。
御座船は川尻沖を東に進み、町辻の和田崎に到着し、
神輿をはじめ順に船から降り、
隊列を整え、大歳神社に歩いていきました。
大歳神社に着いた奴っこは、踊りを奉納したのち、
拝殿に参拝する神事が行われました。
神事が終わると、 一行は大歳神社を後にして、来た道を戻り
和田崎から御座船などに乗り込み森の波止場に還りました。
一行の船団は新宮神社に向かい、御神体を神殿に納められて
、祭りを終えました。
昭和21年
よごろで相撲大会をしました。大人も子供も参加しましたが
事故があり中断しました。
・玉替えをしました。 一個十円でした。
粘土玉の中に数字を刻んだ銅版を入れ、銅版に番号が書かれ、
番号で景品が当たりました。
その後、銅版は時代の流れで次第にアルミ版などに変わりました。
景品の一等が水屋で日用品などが当たり、等外はタワシでした。
昭和三十四年
青年団が解散し、祭りを行う組織が変わらざるを得なくなりました。
森郷長の下に森総代(地区全般の世話をする)と氏子総代
(神社の催事・管理する)と
(祭りの行事の実行役)は自治会〈と徐々に変わっていきました。
そして、次第に大人の祭りから、子供も参加する祭り
へと変わっていきました。
昭和三十七年
伝統ある船渡御は廃止
昭和三十八年
船からトラックに変りました。
奴っこ道中も子供の行列と変わっていきました。
昭和三十九年
小学生が奴っこの振り込み(奴っこ踊り)をした
子供奴っこはトコセを振り、トコセ踊りに進化して行きました。
奴っこ行列は、音頭出しを先頭に、トコセ、台傘、立笠、
大鳥毛、奴っ この順番で行いました。
川尻 安浦間の国道百八十五号線が開通
昭和四十年
川尻 田戸(上蒲刈島)間のフェリー開始
昭和三十一年に始まった生活改善運動の一環として、
八月祭りと九月祭りは十月に統合され
、
日にちも特定せずに、第三の土曜日がよごろで
日曜日が本祭りとなりました。
祭りを行う組織は区長や郷長の下に地区役員
(地区全般の世話をする)と
氏子総代(神社の催事・管理する) と祭礼保存会
や自治会役員(祭りの行事の実行役)
が分担して行う現在の形になりました。
大人の祭りから子供の祭りになっていきました。
祭りを仕切っていたのは森郷で氏子総代がその下で世話をして、
自治会が資金面(金集め) で働いた。
森郷が法人化して活動が難しくなった。
平成六年
トラック渡御からフェリー渡御になりました
フェリーは森川さんが交渉係でした。 コストは三十万円で
郷長は今村造船の社長時代です。
神輿、笛・太鼓と殿様・お駕籠が」
トラックに乗ったままフェリーに乗船
タイバ、奴っこ、腰元など奴っこ道中の人達と宮司、
森郷長や役員や世話人、付き添いが同乗した。
フェリーの航路は
フェリー乗り場から出発し、柏島方面に向かい(恵みの海)
の沖まで行き、太鼓を鳴らしました。
入居していたお年寄りに、祭りを見てもらうためでした。
入居の皆様や関係者から大変喜ばれたそうです。
その後、 フェリー乗り場から柏島のあたりまで行き沖を通り、
神田造船や小用まで行き川尻沖を一周し、フェリー乗り場に戻りました。
フェリーを巡行する船は、漁業組合の漁船をお願いして
巡行していました。
そこから陸路で大歳神社に行き神事を行い新宮神社に戻った
殿様は保育の年長者でお供の役は五 六歳の男子
フェリーは、最初は女性禁止と言っていましたが、
制限はしなかったそうです
フェリーから降りた一行は、隊列を整え
陸路トラックで大歳神社に渡御しました。
平成12年一月の安芸灘大橋の開通に伴い、フェリーは廃止され
フェリー渡御は平成六年から平成十一年までの五年間で終了し
再びトラック渡御に戻りました。
平成14年11月
森総代と氏子総代が一本化しました。日野さんが郷長の時です。
平成十八年頃
姫様の家の接待はなくし、付き添いの母親の服装も
正装から簡略化しました。
駕籠道中はいっから始まったか定かではありません。
始まったころ駕籠に乗る姫様の家では、駕籠かつぎ
の人達を酒食接待していました。
少子化の影響もあり女子でも男子でも良いことになりました 。
平成23年
相撲大会の復活 男の子だけの29名が参加しました
平成24年
相撲大会の復活 女の子も出場するようになりました。
参加者には障害保険を掛けています
令和5年
奴っこ道中 相撲大会 少子化 参加者減少により廃止
添付
祭り当日は郷長'総代等が浜の海水で禊をして参加。
神主が神事を勧めご神体を神輿に
踊りの練習は、祭りの二週間前から。
太鼓叩き、音頭だし、トコセは白足袋。奴は黒足袋。
手甲、脚絆、草鞋履き (中落ち)。
豆絞りの鉢巻き、たすき掛け。半被に角帯、バラ帯(たらし)。
これらの着付けは母親が習い、家から仕度をしてくる。
道中の順番は 奴っこ、太鼓、笛、お駕籠(若殿)、お伴だった
お供の衣服は産着、羽織姿に脚絆、陣笠を身に着け
、刀の一本差しだった。
青年団が解散後、青年会を作り祭りの世話を始めた。
大歳神社でのスケジュール
十四時四十分 森郷一行が大歳神社に到着
十四時四十五分 御旅所前で祭典開始 祝詞、玉串奉奠、巫女舞奉納
森郷の笛・太鼓は大歳神社で奉納太鼓。
三周太鼓、ジバヤシ太鼓・トコセ・奴っこ踊り
十五時三十五分 姫様道中は宮回りで奉納 祭典終了
踊り子は花笠踊りをしながら町文化会館に帰り、
森郷一行も屋台車で帰ります。
町の人達は森御一行を見送ります。
大歳神社の神輿は町の屋台車に乗り、
町内を巡行し、大歳神社に還ります。
笛・太鼓はサガリハ太鼓を叩きながら、
神輿は神殿に帰還されます。
十六時 御旅所解体、神殿の飾りつけ等の片付け
十七時 全て終了
〇参考文献 川尻町誌・民俗編、 通史編、 大歳神社略記
川尻郷土資料保存会の郷土資料一一号・
国郡誌御用書上げ堀越祗園社 祭事記
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