2001年

1月15日(月)

「前略、あなただったら『いい子の演技、イヤなのに』」(1/15 朝日新聞)にて
語られていることに胸が痛くなる。

<記事の要約>
小学校時代から「優等生」、「いい子」と言われてきた。
実際、努力することは苦ではなかったし、「偉いね」と誉めてもらえることが嬉しかった、とも。
「これは演技だ。本当の自分ではない」と気付いたのは
同級生から「話す人によって態度が違う」と言われてから。
子供への期待が昔以上に高まっていて、「苦労させたくない」という名目で成績や進学を要求
する。
期待になかなかこたえられなくて「現実の自分」と「大人の期待通りの自分」に分かれてく。
普段の自分をさらけだしていないから助けてくれる人がいないような気がする。
演技している限り、孤独がつきまとう。
自分が作り上げた仮面に自分が縛られてる。
人生をリセットしたいほど世の中がイヤになることも。
「大事件を起こして、周囲の環境を変えて、仮面をかぶった自分を知らない世界に行きたい」と
思うことすらある。
犯罪はできないけれど、「普通じゃない方向」に突っ走りたい気持ちの人は同年代でも多いは
ず。
私の本当の自己表現はピアノを弾くことだけど、犯罪も、その人にとっての「本当の自分」の表
現手段ではないでしょうか。


「ただ、認めて欲しかっただけだ」と。
「ありのままの自分ではダメなのか」と。
「どうしてこれ以上望むのか」と.。


6月24日(日)

ここにしてもDailyにしても一方的に投げかけるだけで
その後のフォローも結論も一切なしですし(苦笑)
一方的に投げかけるだけになっている現状に疑問が生じているところもあり。で、、
伝え方を降り返る時期に来ている、と。


7月3日(火)

RMRにおいてれいごんが感じているものをどんな風に伝えていくか。
ここを立ち上げてから幾度となく思いを巡らせているところ。
こんなことを言い出すとそれでなくとも重たいこのHPがさらに重くなる。
でも、れいごんが”感じているもの”を
『こんな視点もあるんだよ』という形で知ってもらえたらと思うところもあって。
内容に関してはかなり偏っているところもあるんで(笑)
どれが正しくて、どれが正しくない等と言う気はないんだけども。
でも、どうしても自分の中で消化不良なものがあって、
たいていはトンネルの真っ只中、もしくは消化不良継続中なもんで
生じている葛藤を表現する形になったりして。
れいごんの中に生じた葛藤の多くはすぐには答えが出ないものばかり。
結果的に投げかけるだけになってます。

今回、RMR BBSを一時閉鎖した理由もすべてが解決したわけではないんだけども、
閉鎖したことで求めていたもの、望んでいることとは全く異なった形になってしまったので
BBSの再開を決めました。


7月20日(金)

『砂の中のダイアモンド−障害とともに生きる小さな命』を見た。

なんらかのハンディキャップを持ちながら生きる方たちの人生を描く(伝える)時、
その描かれ方に疑問を生じたこともあったので
TV番組という形に抵抗を感じるところもありつつ。

ただ、「かわいそう」という思いで終わってほしくはないので。
『かわいそう』という表現は”他人事”だったり、”哀れ”んでたり、という感じがするから。
『みんなと一緒』であることで保たれる”安心感”というものの重みを痛感する一方で
”自分らしく”、”自分たちなり”の道を進もうとする人達の姿に
何かを極めようとすればそれなりの覚悟や努力が必要になることを改めて。
もちろんハンディキャップのあるなしに関わらず、ね。
ハンディキャップは目に見えるものも、見えないものもあるから
目に見えるものだけけに振り回されたくない。
自分次第でプラスにもマイナスにもなりうる(できうる)ものではないかと。
そうであってほしい、と。


7月25日(水)

いつもとは違う空気を感じつつ、、
周りの人は気付いているのか、いないのか。
気付いてなさそうだけども、気付いてても”気付かない振り”の人も多くて。
やっかいなものへの反応はありきたりで。
情けなかったり、自責の念にかられたり、あきらめざるをえなかったり。
でも、”現在(いま)”だけに振りまわされたくないから。
これからも自分の歩いてきた道、背負っていきたいから。
自分を見失わぬよう、ゆっくりと少しずつ。


7月26日(木)

”人”は生きていく上でいろいろな”役割”を負う。
もちろんそれにもいろいろと種類があるようで。
仕事、職場、家庭、仲間etc. 
人が集まり、同じ何かを行おうとすれば
必然的に生じてくるものでもあり。
”役割”がある(与えられてる)ことで得られる安心感があったり、
責任が伴うものだから時には負担になることも。
意図していなくても結果的に『役割(必要とされること)』を失うこともあって。
”役割の喪失”が心に与えるダメージも思った以上に大きくて。
何らかの役割を負うということは必要とされる”場”があるということでもあり。
また、その”役割”としての”場”は自分の居場所でもあって。
そんな”場”の中で『居場所作り』の上手い人、上手いとは言えない人、はさまざま。


8月27日(月)

「妻は…多重人格障害 −ある夫婦の心の旅路−」を見ました。
過去から現在に至る記憶の中で辛い記憶を自分以外の人格に持たせ、
自分の記憶の中からは消してしまう という。
同じ体験でも人によって感じ方も違う。
何ともない人から深く傷ついてしまう人まで。
例え深く傷ついてしまっても傷は治り得る。
けれども傷が治る前に何度も傷を重ねたり、深めてしまったら・・・
誰にも気づかれることなく闇の底に沈んでしまう?

人は年を重ね、成長しながらいろんなものを身に付けていく。
”信頼”もその1つで。
特定の誰かに向けられるものから、人間そのものへの安心感まで。
”(信頼を)裏切られたことのない人”なんていない。
それでも人は信頼関係を築いていける。
傷ついても信頼に応えてくれる誰かがいるから。
しかし、不幸にも信頼に応えてくれる誰かに巡り逢えなかったら。
裏切られることしか経験したことがないとしたら。
それでも誰かを信頼できる?

27もの人格をもつ妻の発言や関係者の証言から過去の事実を追求した夫。
多くの、知りたくもなかった(知るには辛すぎる)事実に直面することもあったという。
それでも逃げずに向かい合ってくれた姿。
とても心強く、一人ではないことを感じられたことだろう。
”逃げ出すことなく、自分と向かい合ってくれる”
そんな姿が彼女の心を解き放ってくれたのではないか、と。
『辛い記憶を自分のものとして取り戻しても、自分には向かい合ってくれる人(夫)がいる』と。

彼女に限らず、
”逃げ出すことなく、自分と向かい合ってくれる”存在を求める人は多いだろう。
自分の弱さと向き合いながら、そんな存在に近づけるように。
いつか、きっと。