あれれ^^;流のお経読誦
まず”お経”と言えば”線香の煙と足の痺れる正座”という”苦痛”が頭をよぎりますね。
ただでさえ忙しいご時世に、じっとして苦痛に耐えるのが仏教?
正直な話、私はそう思っていましたし、今でも”正座”なんて嫌なのが本音です。
(変な話、私の息子は私よりも”正座”が上手…これってガニ股の私には不利な姿勢なのか?)
そのような”辛抱無し?”の私へ耳よりな教え。
菩提(ぼだい)本(もと)より樹(じゅ)無(な)し。
明鏡(めいきょう)も亦(ま)た台(うてな)に非(あら)ず。
本来(ほんらい)無一物(むいちもつ)。
何処(いずく)にか塵埃(じんあい)有(あ)らん。
”六祖慧能(ろくそえのう)和尚”(7世紀の中国で仏教を大衆化した人)の詩ですが、
人には元々仏性が宿っているのだから、塵や垢など付きようが無い。
明鏡を磨いても(修行をしても)仏性を得られるとは限らない。
(形ばかりにこだわった修行をしても、悟りには至れない。)
慧能さんの教えが日本に伝わったのならば、”正座”にこだわる必要など無いのでは?
もしかすると仏教=正座なんていう考え方は、誰かが政治的に意図して作った作法かも?
そんなことは無い!栄西さんも道元さんも正座していた!のかも知れませんが、
何かにこだわる(自我の所業)ことだけが正しいとは限らないことを、この詩が教えてくれました。
1.読経を行なう姿勢。
私がお経を唱えるのは、朝の布団の中、温泉での湯の中、
出張途中の新幹線車中、眠れない夜の布団の中…。
おおよそ”仏壇・線香・正座とはほど遠い”場所や状態です。
布団の中で仰向けになってくつろいだら、なにげに
”かいきょうげ〜。”って読誦を始めます。
新幹線の中でも、温泉でも、また客先の待合室でも、まずは”くつろいだ状態!”
…と言うのが、私はお経の”プロ”では無いので、緊張すると経文を忘れてしまいます。
勿論、経本を見ながら読誦することも有りますが、緊張状態だと誤読が増えるようです。
”そんな姿勢で読誦して、功徳など有るのか?”
…って、皆さんは思われるかも知れませんが、ちょっと待って下さい。
”あなたは功徳を求めてお経の読誦をするのですか?”
あ・ぼ〜〜ン…^^;って。…えっ!?話が違う?
お経を読誦しさえすれば苦から脱却出来て幸せに成れるのでは?
そのように思われた方々には納得出来ないかも知れませんが、
少なくとも私は、”お経を読誦すれば幸せに成れる!”とは考えていません。
最近は”義務を果たせば権利を得られる!”…と考える日本人も多いのですが、
少なくとも”お経読誦”は義務では無いですし、”お経読誦”という形にこだわれば、
結局”仏壇・線香・正座”に頼るのと同じではないでしょうか?
私のお経読誦は、概ね利益など得られそうには無い”罰当たり読誦”かも知れません。
確かにお金持ちには成れないし、家の一つも建てられないし、夫婦喧嘩も絶えません。
でも見方を変えれば”喧嘩出来るくらいに”私も妻も、元気です。
お金が貯まらないのは、この国の制度上、子育てにお金が掛かるのも一因だし、
家が手狭になったのは、子供たちやお爺さんが元気な証拠なのかも知れません。
それって、罰当たりな読誦をして受けた”バチ!”なのでしょうか?
人間一人ひとりの幸せの量は、その人の脳が量っているのですが、
その目安となる”物差しの目盛”は、脳の記憶が刻んでいるに過ぎません。
記憶は経験によって違うから、インチとセンチ、濃淡だって千差万別。
そもそも物差しだって、経験によって曲ったり折れたりすると思うのです。
そのうえで時々私は思うのですが、
目には見えない、耳では聞こえない、鼻では嗅げない…そんな目盛さえあるのでは?
その目盛こそが”正座の苦痛によって刻まれる!”
…のかどうか私は知りませんが、そんな教えも有るかも知れませんね。^^;
功徳なんて期待するまでもなく、読誦せずには居られない。
そのような渇きを覚えるのは、曲った物差しを矯正したい心の表われかも知れません。
心の渇きを癒すのに、必ずしも”苦痛”は要らないのでは?…と思っています。
くつろいだ姿勢で呼吸を整えると、とても気持ちが良いですよ。(当たり前の話?^^;)
そのまま静かに読誦を始めると、お腹の辺りの”つかえ”が消えてゆきます。(私だけ?^^;)
それが気持ち良過ぎて…、しばし”うたた寝”してしまうのは、私だけ?^^;
2.読経前の調息。
あれれ^^;は毎朝食事の後、もう一度お布団へ戻るのですが、
仰向けの姿勢で少し呼吸を整えてから、読経を始めるようにしています。
呼吸を整えることを、”調息(ちょうそく)”といいますが、
これにはいくつか方法が有って、私も色々と試しています。
最近はある本で読んだ、”5つ数えながら吸って、15数えながら吐く”
を採用していますが、一般的な”深呼吸”なら”鼻から吸って口から吐く”ですね。^^;
実は”調息”と言うと、”鼻から吸って鼻から吐く”という解説が多いようです。
これは禅宗での”座禅”の際にも行なわれているようなのですが、
ずっと昔に教えられた、”少林寺拳法の呼吸法”は、”口から吐く”でした。
(但しこれは30数えながら吸って、60数えながら吐く…だったと思いますが。)
多分、何か根拠が有って”鼻から吐く”という方法が広まっていると思うのですが、
”ラジオ体操世代”の私たちには、少し戸惑う話です。
ちなみに私は、”鼻から吐いて、鼻から吸う”を基本にしています。
”何で吸うと吐くが逆なのか?”に気付いて頂けるとありがたいのですが、
これが”腹式呼吸のコツ”だと考えているからです。
ラジオ体操の深呼吸は、”胸を大きく広げて、吸って〜吐いて〜”だったと思いますが、
腹式呼吸を覚えないと、”息を吐き切る”という事が難しいはずなのです。
私は”腹式呼吸”をお勧めしますが、その違いを説明するのは難しいですね。^^;
(それこそ”人の呼吸とは?”という疑問にさえつながる悩ましい問題なので。)
簡単に言うと、普段意識せずに行なっているのが”胸式呼吸”。
”腹式呼吸”は、おヘソの下辺りを振幅させて行なう呼吸。
普段は行なわない呼吸法なので、”やってみろ。”と言われると意外に出来ないものです。
余談ですが、妻は出産前の妊婦教室で”腹式呼吸”を習ったそうです。
”腹式呼吸って、腹筋が無い私には難しいのよねぇ〜。”とか、今でも言っています。
それでもなんとか2人の子供の母親に成れたので、腹式呼吸にこだわる必要も無いのですが、
”腹式呼吸=腹筋呼吸では無い。”と、私は思います。
だって腹筋運動をしたら腹筋が痛くなるけど、お経読誦で筋肉痛など起らないので…。^^;
私も友だちから”それは腹式呼吸じゃ無い。”と言われたことが有って、
”じゃあ、何が腹式呼吸なの?”と思いましたが、何かのHPを見ていて気付いたのです。
胸でも腹でも、本当に息を吐き切ると、勝手におヘソの下辺りが振幅して空気を吸えます。
要は”いかにして息を吐き切るか!”なのです。
ちなみに、胸筋を使って息を吐いている場合は、度が過ぎると”あばら骨”が折れるそうです。
最初のうちはおヘソの辺りに手の平を添えて、無理せずに練習して下さい。
腹式呼吸で15数えながら息を吐き、5つ数えながら息を吸うと…。
空気ってこんなに美味しいのか!っていう実感がこみ上げて来ます。
それだけでくつろぎの気持ちが深まって、眠くなってしまう?^^;
お経の読誦が目的なので、私は2、3回繰り返したら読経開始、”かいきょうげ〜”です。^^;
3.ヒソヒソ声でのお経読誦。
お布団の中で呼吸を整えたら、私はそのままの姿勢で”開経偈(かいきょうげ)”を唱えます。
”開経偈”とはお経を唱える前に読誦する短い偈文(げもん)ですが、
”かいきょうげ〜〜”て、お題目の最後の文字(げの字)を息の続く限り延ばして読誦します。
息を吐き切ったら、思い切り空気を吸い込んで偈文の本文を読誦するのですが、
”無常甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう〜)”
”百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう〜)”
”我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ〜)”
”願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ〜〜〜)”
という具合に、4つの文章を各々区切りながら読誦します。
実はこの”読誦方法”には、特に決まりが無いようです。
4つの文章を区切る際に息継ぎをする人も居れば、しない人も居ます。
少し長いお経になると、ひと息で読誦するのは絶対に不可能なのですが、
”どこで息継ぎを行なうか?”も、人それぞれ違うようです。
(息を継ぐ速さにも違いがあるようで、他人には分らないような速さで
息継ぎをする人も居るし、5文字くらい飛ばして息継ぎする人も居ます。)
どれ位の大きさの声で読誦すれば良いのか?という決まりも無いし、
どれ位の速さで読誦すれば良いのか?という決まりも有りません。
確かに和尚さんは良く通る野太い声でゆっくりと読誦しますが、
在家が自宅で朝早くから窓を開け拡げて同じことをすると…ですね。^^;
別にそれを恥じる必要も無いのですが、何度も言うように、
形にこだわった読誦を行なうのならば、仏壇に線香、数珠に木魚に正座です。
それだけのこだわりを持って功徳を求めるより、私は”深呼吸”という利益を取ります。
私はこの4つの文章をひと息で読みます。(息継ぎをしません。)
開経偈は最初に読誦するので、その日の体調を確かめる…という意図も有りますが、
区切りの前の文字(〜の部分)は延ばすので、30秒くらい掛けて読誦することになります。
30秒間息をとめるのは簡単そうですが、30秒間息を吐き続けるのは至難の業?^^;
勿論もっと長いお経では息継ぎが絶対に必要なので、ひと息が望ましいわけではありません。
私は深く吐いて深く吸う調息の要領をお経の読誦に応用したいので、
出来るだけひと息を長くして、その分ゆっくりと息を吐き出したいのです。
かと言って、ただ”ゆっくり”と読誦するのであれば、30秒では済まなく成ります。
限られた呼吸量で効率良く読誦を行なうにはどうすれば良いか?
”大きな声だと少し恥かしいから…。”と思って始めた”ヒソヒソ声での読誦法”が、
何故かこの条件に当てはまっているようです。
ちなみに皆さんはヒソヒソ声で唄を歌えますか?
やってみると分かるのですが、それだと発声域が狭まるので、うまく歌えないと思います。
しかしそこが歌唱と読経の違いです。
お経って一本調子(棒読み?)で良いので、ヒソヒソ声でも読誦出来るようなのです。
(お経の構文によっては難しいものも有りますが…今は慣れました。)
朝の静かな寝室でのヒソヒソ声ならば…、お経も充分に自分の”脳”へ届きます。
ヒソヒソ声によるお経の読誦が亡き人や先祖の供養に成るとは思えませんが、
皆さんは、ご先祖のご供養をどのようにされているのでしょう?
私の住んでいる所では、お盆とお彼岸にご先祖の供養で墓参り。
故人の供養は初七日、49日、3回忌、7回忌…といった法事を行ないます。
私の母親は昨年が33回忌。
その時ばかりは、お寺で”ヒソヒソ声”ではない”お経の読誦”を行いました。
”ヒソヒソ声読誦”で覚えたお経でも、清々しいご利益を頂けたようで感謝です。
お経を読誦すると功徳を積めて現世利益を受けられる…、とは思っていないのですが、
一心にお経を読誦していると、例えようのない幸福感に包まれることが有ります。
開経偈でいうと”がこんけんもんとくじゅじ〜”を読誦する辺りでしょうか。
ほんの2〜3秒の間ですが、私の”胃”の辺りが、スー…と軽くなる時があります。
(がんげにょらいしんじつぎ〜〜〜の辺りでは、息苦しさを感じますが。^^;)
それは他のお経を読誦する際も同じなのですが、毎回同じ…というわけでは無いのです。
その理由が分らないので説明のしようが無いのですが、
人間には自分を治癒する不思議な力が備わっている…というような幸福感です。
”明日を思い煩うな。明日の煩いは明日が背負うであろう。”
聖書にはこのような言葉が書かれているそうですが、
”自分にはこんなに不思議な力が備わっているのだから、きっと明日も耐えられる!”
そんな自信や確信さえも与えてくれる”幸福感”です。
4.お経読誦の際に知っておきたいこと。
まず、お布団の中や温泉の湯船で”木魚やリン”は使用できません。
曹洞宗では右手に木魚、左手に数珠とリン…だと思いますが、
これは宗派によって異なるようです。
四国巡りのお遍路さんが納経堂で読誦している姿を見ると、
”リンリン・カチカチ”にぎやかですし、
曹洞宗のお寺では、”カ〜ンカ〜ン・ボクボク”と荘厳です。
この”音”を知っているだけで、”ヒソヒソ声読誦”の集中力が増すようです。
例えば般若心経を曹洞宗で読誦する際は、
@リンを3回鳴らす。
カ〜ン、カ〜ン、カ〜ンを5秒おきくらいに鳴らします。
A摩訶般若波羅蜜多心経(まか・はんにゃはらみったしんぎょ〜)
というお題目を唱える。
Bリンを1回鳴らして、木魚のリズムと共に本文を読誦する。
カ〜ンという音が鳴り止む前に”かんじ〜ざいぼ〜さつ…”と読誦を始める。
その際、お経の漢字一文字に付き一回の調子で木魚をたたく。
(序文の”観自在菩薩行深般若波羅蜜多時”なら13文字なので13回。)
C文節に応じてリンを”カ〜ン”と一回ずつ鳴らす。
例えば、観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見”五”蘊皆空度一切苦厄舎利子
の文節では、”五”の位置。
…しょう・けん・(カ〜ン)ご・うん・かい・くう…といった感じ。
(勿論、木魚をたたきながらなので、慣れてないと案外難しいものです。)
般若心経では都合3箇所(上記以外に2箇所)ですが、
……依般若波羅蜜多”故”心無罣礙…
……依般若波羅蜜多”故”得阿耨多羅三藐三菩提…
いずれも”故”の位置で”(カ〜ン)こ”です。
D文節に応じてリンを”カチッ”と一回ずつ押えて鳴らす。
リンは普通に打つと”カ〜ン”とか”チ〜ン”とか響くのですが、
打ったまま押えると”カチッ”という音がするだけです。
般若心経では最後の文節で2箇所、
……”羯”諦羯諦波羅羯諦”波羅”僧羯諦菩提娑婆訶…
……(カチッ)ぎゃ・てい・ぎゃ・てい・は・ら・ぎゃ・てい・
(カチッ)はら・そう・ぎゃ・てい・ぼ・じ・そわ・か…という感じです。
ちなみにBで”お経の漢字一文字に付き一回の調子で木魚…”と書いたのですが、
曹洞宗読みでは例外が有って、Dの”波羅(はら)と”娑婆(そわ)は、
漢字2文字を1文字のタイミングで読みます。
(もう一つちなみに、木魚のテンポは、私なら1秒で2回程度です。
四国遍路のTV番組では1秒で3〜4回のテンポだったと思いますが、
お経のCDとか聴くと1秒で一回程度だったり、もっと遅かったり…。
その時々の状況や自分の好きなテンポで良いようです。)
正式に…と言うのか、和尚さんのようにお経を読誦するのは簡単では無いようです。
和尚さんはお経を暗記しているようですが、読経は”ミュージシャン(ドラマー)役”
を掛け持ちしながら、一字一句間違えずに読誦を行なっているわけです。
(お経は分らないから眠くなるだけ…と思っていても心に響くのは、
”お経読誦のプロが成せる業”…ということなのでしょう。)
私たち”在家の読経”は、人に感動を与えるためのものではありません。
自分自身の心と身体を癒せたら、それだけでありがたいことだと思います。
木魚とリンの音とタイミングを知っていれば、”想像音”を感じることが出来ます。
”音は耳で聴くものでしょう?”と思われるでしょうが、音を理解するのは”脳”です。
ショパンの曲が好きな人ならピアノの音が浮かぶように、木魚やリンの音も浮かびます。
…しょう・けん・(カ〜ン)ご・うん・かい・くう…て浮かんだリンの音が、
ど・い・さい・く・やく・しゃ・り・し…の辺りまで響くようになると、鳥肌が立ちます。
皆さんにも是非体験していただきたい、と願うばかりです。
5.お経読誦の際に注意して欲しいこと。
お経を読誦していて”胃”の辺りが、スー…と軽くなる。
ということは、それまで胃の辺りが重苦しかったという状態の裏返し。
開経偈はひと息で…と言っても、その日の状態で、息継ぎをすることも有ります。
お経を読誦して胃の辺りがスー…としないのは、元々体調が良いから?かも知れないし、
息継ぎが必要だったのは、前の日に少し飲み過ぎたから?かも知れません。
私の場合は煙草を吸うので、お経読誦による深呼吸は本当に清々しいですが、
気管支炎のひとが一時間近くも深呼吸を続けると、身体への負担は無視出来ないでしょう。
ヒソヒソ声で読誦するくらいなら、口だけ動かす方が良いと言う人も居ますし、
(マスクをすれば、満員電車でも人目を気にせず読誦出来るそうです。)
黙読でも構わないと思います。
(私は眠りたいのに眠れない時に、目をつむって暗唱・黙読しています。)
深呼吸を優先するのなら、息継ぎにも時間を掛けたいのですが、
お経によっては読経の流れを優先したいことが有ります。
息継ぎで流れを止めたくない場合、息継ぎ中の経文は黙読するか、
一回の息継ぎ時間を短くするか、…なのですが、
後者の方法は、慣れていないと途中で窒息してしまいます。
(私も何度か咳込んでしまって、結局、流れを止めることに…。
それでも陀羅尼だけは…と思うのが、陀羅尼の怖さかも知れません。)
ちなみに温泉の湯船やサウナで読誦するときは要注意です。
湯船の気持ち良さに誘われて”観音経”でも読誦しようものなら、のぼせてしまいます。
(私も何度か”あぶない!”と思ったことがあります。)
サウナの中で”熱さに耐える修行気取り”の読誦をしていると、生死に関わります。
(高熱の空気の中で深呼吸をするわけですから…。)
”功徳を求めて居るわけじゃない!”と割り切れば、途中止めも苦に成りませんが…。
お経読誦を続けていると、なんだか自分が超人になったような気持ちになるのです。
怖いくらいに体調の悪さが消えるし、怖いくらいに気持ちが前向きになるし…。
でも、それは両刃の剣なのでは?と思うことが有るのです。
(風邪ひとつ引かなくなると、病院へ行くことも無くなるでしょう?)
おそらくは薬と同じで、度を過ぎると毒になる…そんな怖さもあると思うのです。
私は何度もなんども言うように、お経読誦が”功徳”だと思うのは良く無いと思います。
功徳だと考えれば、どれくらいやれば良いのか?で迷うのが人間ですし、
足るを知らないと、功徳を求める行動は必ずエスカレートするはずです。
決して義務では無いのだから、自分の好きな時・好きな場所に応じて、
自分のペースでお気に入りのお経だけ、読誦すれば良いと思います。
でも私に限って言うと、お経の読誦を始めると、本当に色々な変化が身体に起ります。
理由あって紹介出来ないことも有るのですが、朝食が美味しいなんて知らなかったし、
以前はお腹が空く…っていう感覚さえ、忘れていたのです。
コンピュータ関連の仕事って楽な仕事だと思われがちですが、
最近の高性能パソコンとは違い、身体は壊れるものなのです。
人生50年…と言われていた時代にはパソコンなんて無かったはずですが、
ずっと以前から伝わる”お経”が、瀕死の私を救ってくれたことに感謝しています。
願わくはこの功徳を以って、普く一切に及ぼし、
我等と衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを。
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