Locus 03-02 "iste molito,exsultatio et tribulatio"





「よしっ!後は待つだけ!」





 二つのドアが閉じられ、一つのドアが開き。
 制服の上にエプロンを付けた千早が嬉しそうに出迎えた。
「おはよ!祐一、静希!」
「おはよう、千早ちゃん」
「おはよ、千早。悪いな」
「いいってば。そんなに畏まらなくても」
 照れた様に、千早が笑う。
「でもな・・・」
 困った様な、それでいて照れた様な祐一を、千早と静希は苦笑しながら追い立てた。
「はいはいはいはい、いいから早く上がってテーブルに付く!」
「祐一さん、早く食べて学校行かないと」
「はぁ・・・解った」
 祐一も苦笑。
「じゃぁ、上がらせてもらうな」
「どーぞ」
 ドアを開け、上がればそこはキッチンになっており、少し大きめのテーブルが据えられている。
 いつもは静希と食べているからだろう。
 テーブルとおそろいの椅子が二つ。
 そして、普段は部屋で使っている様な椅子。
 テーブルの上には塩鮭、卵焼き、味噌汁。
 典型的な和の朝食であった。
「はい、ここ座って」
 炊飯器に向かう千早を見ながら、祐一は言われるままにテーブルに付いた。
 静希はと言えば慣れているのだろう。迷いもせずに椅子に座っている。 
「はい」
 茶碗にご飯が盛られ、祐一の前に差し出された。
 ご飯を一口。
 研ぎ方が上手いのだろう、電気炊飯器で炊いたとは思えない味だった。
 そして鮭を一口囓る。
 こちらも絶妙な塩加減。
 美味い、と呟き、祐一は味噌汁を啜った。
「千早」
「何?」
「つくづくお前って料理上手かったのな」
「・・・ちょっと気になる言い方だけど。・・・美味しい?」
「ああ。美味いぞ」
 祐一は答えながら卵焼きを一口。
 こちらも出汁が程良く効いており、祐一の好みに合致していた。
「うん、美味い」
 本当に美味しそうに料理を口に運んでいく祐一を見て、千早はほにゃ、と崩れていった。
「えへへへへ〜」
 幸せ真っ只中、と言った風情の千早を眺めつつ、静希は熱い闘志を燃やしていた。
 鮭を一口。
 確かに美味しい。
(強敵ですね・・・でもっ!)
 静希は拳を握った。
(千早ちゃん・・・わたしも負けませんよっ!)
 そんな静希の心を知ってか知らずか、祐一は手を合わせて御馳走様。
「ごっとさん。本当に美味かった」
 それを見ながら、千早はお茶を一口飲み――
「で、さ。祐一」
 切り出した。唐突に。
「まだ変化の途中って・・・どういう意味?」
「ぐあ、直球だな」
「間怠っこしいの嫌いなの」
 苦笑する祐一に、千早は澄ました顔で答えた。
「私も訊きたかったんです。どういう意味なんですか?」
 心配そうに、静希。
 そして祐一は。
「・・・言葉の通りだ。この世界はまだ、変わりきっていない」
 躊躇いがちに。
「位相がずれている、と言うべきかな。不安定なんだ。一つ間違えると元の世界に戻る。それくらいにな」
 微かな不安を滲ませて。
「俺にはまだやらなきゃいけない事があるみたいなんだ。それがなんなのかは解らないけどな」
 語った。
 それに、千早と静希は恐怖を感じた。
「また・・・消えてしまうのですか?」
「今度はあたし達を残して」
 漠然としたものではない。
 大きな、恐怖を。
「また、消えてしまうの?」
「嫌ですよ。そんなのは。せっかく・・・」
「せっかく、人として逢えたのに。そんなのは、絶対に嫌・・・!」
 感じた。
 だから祐一は、今にも泣きそうな千早と静希に笑いかけた。
「まぁ、心配ないとは思う。消えるならもうとっくに消えていてもおかしくないだろ?」
 敢えて、冗談めかせて。
「だって、世界そのものを変えた引き金みたいなものなんだからな。でも大丈夫、俺は消えないって」
 自分の不安を押し隠して。
 しかし、千早も静希も言葉だけでは納得しなかった。
「本当に・・・消えない?」
「本当に、消えないで居てくれますか?」
 祐一が二人の言葉に感じたのは喜びだった。
 数年前、会っただけの自分。
 彼女たちを一度消滅させるきっかけとなった自分。
 新たな不安を呼び込んでいる自分。
 そんな自分を心配してくれている。
 ならば。
 応えなければならない。
 祐一は右手を差し出した。
 小指を立てて。
「約束だ。俺は消えない。俺は、お前達を残したりはしない」
「うん・・・」
「はい・・・」
 おずおずと、千早と静希の指が差し出されて――
 絡み合った。
 忘れない様に。
 離れない様に。
 そんな約束のために。
 解けた後も、千早と静希は右手を抱いていた。
 約束を、言葉だけで終わらせない様に。
 心に刻む様に。
 祐一は千早と静希の背中を強く叩いた。
「んじゃ・・・学校に行こうぜ!」
 そして一つの扉は開かれ、閉ざされた。


 5つのドアは同時に開かれ、同時に閉ざされた。
 そしてそれぞれに疾走開始。


 取り憑かれた様に走る水瀬名雪を追いかけて、水瀬あゆと水瀬真琴は走っていた。
「名雪、なんで走るのよっ?」
「起こしに行かなくても目を覚ましてたし。きっと良くないことがおきるよ、真琴ちゃん!」
「あ、あゆもそう思うんだ?」
 走りながらも3人の会話には淀みがない。
 歩きながら話しているかの様である。
「う、酷いことを言われてる様な気がする・・・」
「気のせいじゃないよ」
 さらりと答えるあゆ。
「・・・・・・あゆちゃんと真琴ちゃんの今日の晩ご飯はキムチ」
「うぐぅ、そんなっ!」
「あう、名雪!何考えてるのよう!」
 ジト目の名雪の言葉に、思わず悲鳴を上げる。
「山盛りの大根キムチに白菜キムチをかけるの。勿論飲み物はキムチの汁」
 容赦ない名雪にあゆは涙を滲ませ――否、滲ませる振りをして――
「うぐう、酷いよ名雪さんっ!・・・なんてねっ!」
 にぱ、とあゆは余裕の笑みを浮かべた。
「今日の晩ご飯はボクの当番だもん。絶対そんなことにはならないよっ!」
「あゆ偉いっ!」
 勝ち誇った様な表情のあゆと真琴に、
「う、負けたよ・・・」
 名雪は肩を落とした。
 そんな名雪に、あゆは素朴な疑問を投げかけた。
「それで名雪さん。何で走ってるの?」
 対する名雪の答えもシンプル。
「逢いたいから、かな?」
「解った!相沢だっ!」
 間髪入れずに真琴。
「真琴ちゃん・・・何で解るのっ?」
 名雪はすぐ当てられるとは思っていなかったのだろう、驚いた顔になった。
「あう、そうなの?真琴は真琴が会わなきゃいけない奴の名前挙げただけだったんだけど・・・」
「ええっ!名雪さんに真琴ちゃんもなのっ?」
 名雪と真琴の発言に、あゆも焦った様な声を上げて――
「わ、あゆちゃんもなの?それじゃ・・・負けられないよっ!」
 言うや否や、名雪はスピードアップ。
「あう、名雪ずるいっ!でも・・・真琴だって伊達に毎朝走ってる訳じゃないわよ!」
「狡いよ名雪さんっ!でもね・・・毎朝走ってるのは名雪さんだけじゃないんだよっ」
 走ったまま漫才の様な会話を繰り広げる3人を、ゆっくりのんびりと歩いている人々は怪訝そうに見送った。


 早足で歩いている美坂栞を半眼で見やりながら美坂香里は問いかけた。
「栞。何をそんなに急いでいるの?」
「お姉ちゃんこそ、何か焦っている様に見えます」
 言われてみれば確かにそうだ。
 栞と同じペースで歩いている。
 いや、小走りに近いと言っても良いだろう。
「あ、あたしが・・・?そうね。そうかも知れないわね」
 あたふたと慌ててから自己分析。
 確かに、焦っている。香里もそのことは認めざるを得なかった。
 栞は微かに頬を赤くしている香里をじっと見つめた後、ある男子生徒の名を挙げた。
「まさかとは思いますけど・・・相沢さん、ですか?」
「まさか。なんであたしが相沢くんを気にしなきゃいけないの?」
 冷静な言葉。
 しかし、目は泳いでいる。
 どこかそわそわしている様に手を軽く振っている。
 図星を指されたときの香里の癖を、栞は見逃さなかった。
「当たり、ですね」
 半眼の栞に、香里は屈服。
「そ、そう言う栞はどうなのよ?」
 聞いたものの、栞はあっさりと笑顔で答えた。
「私も相沢さんに早く逢いたいからです」
 香里は一瞬唖然。
「栞。はっきり言う様になったわね」
 感慨深そうな香里に、栞はにっこり笑いかけた。
「お姉ちゃんの妹ですからっていひゃいいひゃいいひゃい」
「こんな事を言うのはこの口かな〜?」
 優しい――あるいは優しすぎる微笑み。
 香里は栞の口元を引っ張りながらそんな笑みを浮かべていた。
「あにふうんえふはおへえひゃん!」
「何言ってるか解らないわね」
 ごく、真面目に。
 香里が言った瞬間、栞は香里の両手首の間接を極め、手を外させた。
 しばし姉妹は背中を向け、与えられた痛みに涙した後――向き合った。
「解らなければ手を離せばいいじゃないですかっ!」
「あ、怒った?」
「怒りますっ!」
「でもね・・・あたしも怒ったのよ?」
 どこか、危ない空気が渦巻いている。
 香里を中心に。
 非常に良くない雰囲気が漂っている。
 鳥の声も猫の声も犬の声も人の声も聞こえない。
 見回せば全ての存在が恐怖に揺れている。
 無生物でさえも。
 栞は素直に香里に陳謝することにした。
「う・・・御免なさい、お姉ちゃん」
「宜しい」
 その言葉と同時に、世界は色と音を取り戻した。
「とにかく・・・相沢くんと会わなきゃ始まらないわね」
「そうですね、お姉ちゃん!」
 そして恐怖は去り、全ての存在は安堵した。


「では、行って来ます」
 天野美汐は足取りが妙に軽いのに気付いた。
「・・・あれ?」
 何故か、走り出している。
「何故でしょう?」
 立ち止まり、首を捻って考えてみる。
 考えてみる。
 考えてみる。
「あ」
 呟き、手を打つ。
「どうやら認めなければならないようですね」
 溜息一つ。
「私は」
 一句一句。
「相沢先輩に」
 確かめる様に。
「早く会いたいと」
 呟く。
「思っている」
 美汐は疾走を再開した。


「行って来ますね〜」
「行って来ます」
 倉田佐祐理と倉田一弥は一緒に家を出、そして一緒に走り出した。
 これだけなら別段珍しくはないのだが、一弥は佐祐理の表情が少しばかり気になった。
 いつも笑顔を絶やさない佐祐理だったが、今日の表情は少し違う。
 言うならば、嬉しいと痛いとを内包した笑顔。
 一弥は疑問を口にした。
「姉さん、なんかあった?」
「え?別にないですよ〜。佐祐理はいつもどおりです」
 走るのを止め、歩きながら。
 動揺が見て取れる。
 一弥は苦笑した。
「いや、その表情は良いことがあった、またはこれから良いことがあったらいいな、って顔だね」
「はえ、解るんですか」
「解るよ。姉弟だもの」
 驚いた様な表情の佐祐理に、一弥は真面目な目と声で問い質した。
「祐一だろ?」
「相沢さん・・・?」
「違う?」
「違わないと・・・思う」
 目を伏せる。
 一弥は溜息一つ。
「全く・・・欲しいものは欲しいって言わなきゃ。特にこういう事って何も言わないと損するよ?」
 一弥は苦笑。
 した後、走り出した。
「うん・・・って一弥っ!」
 佐祐理は真っ赤になりながら、大きな声を出していた。
「先に行くね〜!」
 笑顔を残して一弥は疾走。
「待ちなさい、一弥・・・って。はぁ。やはり早いですね」
 見る間に小さくなっていく一弥を見ながら、佐祐理は微笑んだ。
 微笑んだ後。
「じゃぁ佐祐理も行きますよっ!」
 走り出した。


「・・・・・・うーん。いつもよりペースが速い」
 川澄舞は疾走しながら呟いた。
 何かに急かされている様に、走る。
 早く学校に着かないと、非常に拙い。
 そんな強迫観念にも似た思いが舞を捉えて離さない。
「うーん・・・・・・」
 走りながら思考――結論。
「やっぱり相沢、か」
 相沢祐一のことを考えてみる。
 何故か胸が痛む。
 と同時に、暖かい。
 知らない内に走る速度が上がっていく。
「うん」
 それを自覚。
「なら、一刻も早く会わなきゃだね」


 8つの足音はほぼ同時に校門の中に入っていった。
 そして。
「あ」
 8人の声が重なった。
「おはよう」
 暫し見つめ合い、溜息。
 8人はそれぞれ校門の前で、待ち人を待ちはじめた。
 沈黙。
 8人以外の誰の発言も許さない沈黙。
 しかし、沈黙は舞によって砕かれた。
「みんなは・・誰を待っているの?」
 舞は壁に背中を預け。
「相沢祐一。違う?」
 目を閉じて訊き。
 7人はそれぞれの言葉で肯定した。
 舞はやはり、と頷いた。
「何故か、痛むんだよね。相沢の事考えると」
 舞は苦笑。
「でも、暖かいような。幸せなような気持ちになれる」
 そこに、痛みと暖かさが今いると言う様に。
 舞は自分の胸を抱いた。
「不思議だよね。昨日、出会ったばかりなのにね・・・」
 こんなにも、気になっている。
 8人は相沢祐一の表情を思い浮かべてみた。
 どこか陰のある表情。
 しかし、陰を見せたかと思えばすぐ明るい表情を見せ、心を探らせない。
 優しいけど、儚い。
 強いけど、切ない。
 とても寂しそうな。
 じっと耐える様な。
 笑顔。
 そして。
 明るい行動の裏に見え隠れする、強い意志。
 見ている側こそが哀しくなる程に強い意志。
 例え自分がどんなに傷付いても耐え抜く心。
 いつでも自分たちを見守っている優しい瞳。
 自分達はあそこまでも強くなれるだろうか。
 自分達の周りの人はあんなに強いだろうか。
 彼は何故にそこまで強くなれるのだろうか。
 何が彼を強くあることを要求しているのか。
 そんな疑問を感じずに居られない男子生徒。
 相沢祐一。
 名前を呟くだけで、痛む。
 心が。
 痛む。
 でも、それと同時に嬉しいとも思える。
 それは。 
「相沢は・・・私たちを・・・」
 護ろうとしている。
 根拠はない。
 根拠はないが、そう思えたから。
それ故に相沢祐一は8人を遠ざけようとしている。
 まるで何かを恐れる様に。
 祐一が8人と仲良くなったら何かが壊れてしまう。
 そう考えているかの様に。
 彼女たちには祐一がそう考えているのではないかと思えた。
 しかし。
「納得、行かないわよね」
 香里が呟いた。
「相沢は何かを知っている」
 眼を伏せ、舞。
「多分、斎笹さんや・・・」
 名雪も。
「御巫先輩も何か知ってる・・・」
 栞も。
「でも、ボク達には隠してる」
 あゆも、少し辛そうにしている。
「でも、訊くんですか?相沢さんが答えると思っているのですか?」
 佐祐理は心配そうに。
「でも訊かなきゃ納得行かないわよう!」
 真琴は絶対に訊かなきゃ、と言う表情で。
「訊かない方が良いでしょうね。訊いたところではぐらかされるのがオチです」
 美汐は目を閉じ、呟いた。
 何故かは解らないままに。
 8人の少女達は。
 相沢祐一に。
 逢いたいと。
 狂おしい程に。
 そう思っていた。


 その相沢祐一が来る。
 歩いている。
 ゆっくりと。
 隣には、御巫千早と斎笹静希。
 楽しそうに。
 歩いている。
 自分たちには見せない、安心した様な笑顔。
 少女達は痛みを感じていた。
 そして駆け出した。
 逃げる様に。
 それぞれの教室に。
 荒れ狂う疑問を抱いて。
 駆け出した。
 ナンデ?
 ナンデ?
 ナンデ?
 ナゼアノコタチニハソウヤッテワラウノ?
 ナゼソウヤッテワラッテクレナイノ?
 アノトキハワライカケテクレタジャナイ。
 アノトキハソバニイテクレタジャナイ。
 ユウキヲクレタジャナイ。
 タスケテクレタジャナイ。
 ナンデ。
 ナンデ。
 ナンデ。
 なんで。
「なんで・・・?」
 疑問。
 疑問は途中でその意味を変えた。
 何故自分たちは相沢祐一の『本当の』笑顔を知っているのか。
 解らない。
 しかし、知っている。
 今、相沢祐一が静希と千早に投げかけている笑みを。
 知っている。
 困った様な。
 照れた様な。
 とても優しい、笑みを。
 知っている。
「何で・・・」
 解らない。
 何故かは解らない。
 何故かは解らないままに、8人の少女達は――
 相沢祐一を、求めていた。





『世界の変革は未だ終わらず、汝等が運命も未だ定まらず。されど恐れる事なかれ。己を信じ、側にいる者達を信じ、ただ前へと進むべし』





―continuitus―

solvo Locus 03-03 "iste molito,confusa et conjectura"

moveo Locus 03-01 "et istae sequor eum"