Locus 04-08 "cogitabundus luna/obscurum"
『其は闇
導く闇
安寧もたらす久遠の闇
闇に包まれ静かに眠れ』
月が照らしていた。
月は影を作り、作られた影は全てを覆い隠す。
しかしそれは癒すための闇。
月が作る優しい闇が街を彩っていた。
天野美汐にとって、月は辛い想い出を喚起させる存在だった。
幼い頃に出会い、一緒に遊んだ『あの子』。
ものみの丘の妖狐の子供だった『あの子』が消えたのも月が綺麗な夜だった。
何も出来ない。
何も。
何も。
何も。
出来たのはただ泣くことだけ。
泣きながら『あの子』の手を握りしめることだけだった。
月影の下、『あの子』は――
美汐を恨むでもなく。
自分の運命に涙するでもなく。
ただ。
嬉しそうに微笑い――消えた。
その傷はずっと心の底に残っていた。
しかし、いつからだろう?
その想い出が辛いだけのものでなくなったのは。
今は『あの子』の笑顔を思い出し、微笑うことも出来る。
勿論それは今美汐の側にいるもう1人の妖狐――真琴のお陰でもあるのだが。
しかし、真琴が人間となったときのことが上手く思い出せない。
真琴との出会いさえも思い出せない。
辛いことがあった。
とても辛いことがあった。
そんな気がする。
こんな事が気になったのは――相沢祐一が現れてからだ。
それまでは気にしてなかったことが気になる。
そして美汐は記憶を辿るために目を閉じた。
――月はまだ、記憶の運び手をやめてはいない。
美坂香里にとって、月は問いかけの相手だった。
自分が何を為すべきか迷ったとき、香里はいつも月に問いかけていた。
そうすると何を為すべきかが浮かんできた。
そして今、香里は何を為すべきか迷っている。
相沢祐一への対応。
凄絶な過去。
もしも自分なら――きっと壊れていた。
しかし、祐一は微笑みを忘れていない。
なんて哀しいほどの強さ。
なんて哀しいほどの優しさ。
それ故に自分は相沢祐一に惹かれているのだ、と思っていたのだが――違和感がある。
それだけではない。
そんな気がしてならない。
香里は溜息を一つつき、昔。
ずっと昔の事を思い出す。
医者と両親の会話。
奇跡が起きた、と言う言葉のその意味。
そして両親に問い質したところ――
驚愕。
栞は治る見込みのない病気に罹っていたのだという。
静かに。
ゆっくりと。
穏やかに。
しかし確実に命を削っていく病気に。
それがある時突然治ったのだという。
実際のところ、香里にも栞にもその頃の記憶がない。
いや。
記憶はあるが、所々が抜けている。
誰かと遊んだ。
しかし、その誰かが誰なのかの記憶がない。
誰かに誘われて今は友人となった倉田佐祐理の家に行った。
しかし、誰に誘われたのか。
何故その様なことになったかの記憶がない。
馬鹿な、と思う。
しかし事実。
途切れ途切れの記憶の中、確かにあるのはその誰かに指輪を貰ったという記憶。
その指輪を見ると何故か哀しくなり、涙が出てきた。
それは高校に入っても変わらなかったのだが――
しかし何故だろう。
今は、その指輪を見てもただ切なくなるだけなのだ。
そうなったのは相沢祐一が現れた頃と前後している。
しかし――
その、記憶にない誰かが祐一であるはずはない、と香里は判断している。
祐一の昔話。
それが根拠なのだが――
香里は戸惑いを隠しきれないまま目を閉じた。
――月はまだ、惑いの中で揺れている。
川澄舞にとって、月の光は馴染み深いものだった。
それは勿論、今――この世界の舞にとってではないが。
しかし、何故か。
舞は月の光に、微かな懐かしさを覚えていた。
時折幻影のように浮かぶ光景。
そのユメの中で舞は闘っていた。
何と闘っているのか?
何故闘っているのか?
分からない。
全く分からない。
しかし、確かなのは――
月の光が照らしていたこと。
誰かが側にいたこと。
その誰かが誰なのか――
分からない。
思い出せない。
そして、自分の友人に何かが起こったのかは憶えている。
自分にその後何かが起こったのも憶えている。
それが気になる。
ユメ。
ただのユメの筈。
なのに何でこんなに気になるのか?
その戸惑いを拭い去るように舞は目を閉じた。
――月はまだ、鏡のように心を写している。
倉田佐祐理にとって、月は神秘の象徴だった。
昔、ずっと昔のこと。
弟の一弥は病に倒れていた。
原因不明。
病名も不明。
何も分からない病。
ただ一つ言えるのは、心から来る病だと言うこと。
あの頃の自分は馬鹿だったと思う。
一弥にずっと厳しく当たってきた。
しかし一弥は微笑うだけ。
それが辛くて、哀しくて――
余計に辛く当たってしまった。
本当に馬鹿だったと思う。
しかし、1人の時はいつも――
月に祈っていた。
早く一弥が良くなりますように、と。
ずっと、ずっと祈っていた。
そしてある日突然――
本当に突然に一弥は回復に向かった。
月への祈りが通じたんだ、と思った。
しかし、何かが違う。
それが事実なら、なんでこんなに哀しいのだろうか?
オルゴールの中の小さな指輪。
気が付いたら持っていたそれが、何かを思い出させる。
しかし、思い出せない。
肝心なことは何も思い出せない。
沢山友達が出来たこと。
それは思い出せる。
しかし何故、どうやって友達になれたのか?
それが思い出せない。
それが今になって気になる。
相沢祐一。
彼との邂逅が引き金となって。
惹かれている。
それは解っている。
強さ。
優しさ。
それだけじゃない。
何か。
決定的な何かに惹かれている。
それが何か解らない。
しかし、記憶の間隙になぜか引っ掛かっている。
祐一はまだ何かを隠している。
そんな気がする。
問い質すことは簡単だろう。
しかし――出来ない。
凄絶な過去を聞いたあとではとても出来るものではない。
しかし――もし。
いつか、話してくれたら。
全てを話してくれたら――
僅かな、本当に僅かな期待。
佐祐理は祈りながら目を閉じた。
――月はまだ、神秘の光を湛えている。
斎笹静希にとって、月は己自身だった。
今はもう帰れない紫の世界で、静希は魔なる存在だった。
静寂。
真理。
祈り。
それらを司る存在だったのは、もはや遙かな過去。
今の静希はただの人間としてここに在る。
力も無く、寿命も限られた弱い存在。
しかし彼女自身はそれで良いと思っている。
なぜなら、惹かれたそのひとの側にいることが出来るから。
人間として祐一の側にいることが出来る。
それだけで幸せだと思うことが出来た。
勿論それは彼女の半身とも言うべき存在だった千早も同様なのだが。
しかし、何故だろうか。
湧き上がる不安がある。
消えない不安が。
それは――あの時のように、祐一がまた消えるのではないかという不安。
いや。
不安と言うよりも――恐怖と言うべきか。
確かに祐一は約束した。
しかし、抗えないものもある。
あの世界で”彼”が言っていたことを思い出す。
抗えないものは確かに存在する、と。
基本的に存在は等価なのだ。
その不変の法則。
あの世界で確かに自分たちは”彼”によって再構成された。
しかしその分”彼”も大きく力を失った。
今、この世界には”彼”は――居ない。
もしも祐一が『何か』を変えてしまったら。
今度こそ――
消えてしまうのではないか。
しかも、祐一は言っていた。
まだ不完全なんだ、と。
変わりきっていない、と。
静希はその言葉に恐怖し――
恐怖を振り払うように目を閉じた。
――月はまだ、真実を照らし続けている。
『我は闇
全き闇
静かな眠りに導いて
汝の傷を癒す者』
―continuitus―
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