Locus 04-09 "cogitabundus luna/caerum"





『其は空
 蒼き空
 全てを包み全てを見守り
 全てを慈しむものなり』





 月が照らしていた。
 空に浮かぶ、静寂そのものの存在。
 無慈悲な様でいて、しかしその実慈悲深い光。
 空から街を静かに、ただ見下ろしていた。


 水瀬秋子にとって、月は忌まわしい記憶を思い出させる存在だった。
 あの日。
 あの夜。
 彼女の伴侶が戻ってこなかったその日も、月は無慈悲に街を照らしていた。
 料理を作り、娘――名雪と夫の出張からの帰りを待っていたその時。
 電話がかかってきた。
 その電話は予想だにしないものだった。
 即ち、夫の死。 
 その時から秋子は強くなることを望んだ。
 残された娘を護るために。
 しかしまだ、悲しみは癒えていない。
 癒えるはずもない。
 いつか癒えるのだろうか?
 その疑問も浮かばなくなって久しい。
 そして、今。
 気になっていることがある。
 祐一がこの街に来るとき。
 何故だろうか。
 彼女の娘達は祐一のことを憶えていなかった。
 敢えて何故忘れたのかを聞かなかったのは――彼女自身、祐一の存在を忘れていたからでもある。
 先日の電話。
 祐一がそちらに行く、と言うその電話があるまで。
 そして秋子は祐一の存在を思い出したのだが――記憶が所々抜け落ちている。
 そう。
 7年前、祐一がこの街を去ったときの記憶がない。
 あの年、祐一は一人でこの街に来ていた。
 その時には名雪と出迎えたのだが――
 いつ、祐一が帰っていったのか。
 どうやって帰っていったのか。
 そしてその時、自分は何も不思議に思わなかったのか。
 秋子は愕然とした。
 自分も、憶えていなかった。
 祐一の名を聞くまでは。
 何があったのか。
 何故記憶がないのか。
 しかし、それを探ることは最大の禁忌である。
 そんな気がして、秋子は微かな恐怖を感じつつ目を閉じた。
 ――月はまだ、無慈悲な冷たさを失ってはいない。


 倉田一弥にとって、月は幸せの象徴だった。
 あの幼い日、元気になったその日の夜も月が綺麗だった。
 それ以来、月の綺麗な夜は姉弟で話した。
 今までのこと。
 これからのこと。
 一弥が一番喜んだのは、いつも辛そうな表情だった姉――佐祐理が元気になったことだった。
 しかし、それと同時に佐祐理は自分自身を名前で呼ぶようになった。
 その理由を以前訊いたのだが、その答を得ることは出来なかった。
 彼女自身にも分からない、と。
 哀しそうな顔でそう言ったのを憶えている。
 つまり。
 あの頃――何かがあった。
 自分の姉を含めた8人に。
 そしてそれは恐らく一弥自身にも何らかの影響を与えたのだろう。
 何故か、その確信があった。
 そしてもう一つ。
 不安定な、そして儚い記憶の片隅。
 誰が言ったのか。
 その記憶は無いが、確かに約束した。
 ――8人の少女達を護る、と。
 不確かで不鮮明な色の記憶だけど、その言葉だけは鮮やかな響きを保ち続けている。
 故に。
 一弥は護り続けた。
 いろいろなことから、彼女たちを。
 そのために――護るために、強さを求め、手に入れた。
 しかし。
 彼以上の強い存在があった。
 ――相沢祐一。
 何故か懐かしさを感じる少年。
 一弥以上に強い心を『持ってしまった』その存在。
 一弥は、彼になら――祐一になら任せられる。
 そう、思った。
 しかし一弥は感じていた。
 確かな安堵と、不確かな不安を。
 任せられる人間が現れた。
 それがもたらした安堵。
 そして、相沢祐一に感じるそこはかとない不安定さ。
 感情が不安定なのではない。
 むしろ安定している。
 心が弱いわけでもない。
 むしろ強すぎるくらいだ。
 なのに何故不安を感じるのか?
 なのに何故――
 子供の頃のような恐怖が甦るのか?
 それを聞いたところで祐一は答えないだろう。
 しかし調べるつもりは毛頭無い。
 調べることが崩壊を生む。
 そんな、漠然とした予感。
 しかしそれはすぐにカタチとなるだろう。
 行動に移しさえしたら。
 そして崩壊は――一弥の大切な人達の心を壊してしまうかも知れない。
 調べない。
 調べるべきではない。
 知るべきではない。
 一弥は好奇心を殺し、目を閉じた。
 ――月はまだ、無表情を崩してはいない。


 滝元和樹にとって、月はただそこにあるモノだった。
 満ちては欠け、欠けては満ちる。
 確かに欠けているときはそこにいないように見える。
 しかし間違いなくそこにあり続ける存在。
 何も話さない。
 何も見ない。
 慈悲は与えない。
 怒りももたらさない。
 ただそこにあるだけの存在。
 その認識が変わり始めたのはいつからだろうか?
 遠い昔のような気もするし、ごく最近のような気もする。
 確かなのは、月はただ黙している存在ではなくなったと言うこと。
 何かを伝えようとしている。
 しかしそれは滝元には届くことはないだろう。
 滝元はまだ、彼自身のなすべき事と罪とに囚われている。
 大切な人達を傷つけてしまったという後悔がまだ残っている。
 彼が今あるのは、その罪を贖うため。
 幸せになるべき人が幸せになるのを助けるためである。
 護れる存在なら護れ。
 幸せに出来るなら幸せに。
 ただそれだけ。
 それだけが滝元を動かしていた。
 しかし、滝元は不安も感じていた。
 ――相沢祐一。
 この存在に。
 安定しすぎていて気付かないほどの不安定さ。
 強すぎてそのために見失いそうな脆さ。
 ただ不安ばかりが募る。
 これからどうなるのか。
 どうすればいいのか。
 滝元はまだ答を見つけることが出来ない。
 自分が動いたところで何が出来るか、彼自身は承知していた。
 しかし。
 それでも、何かが出来るなら――
 動かなければならない。
 動かないままで後悔するよりはずっといいだろう。
 ――全く、厄介な。
 滝元は苦笑を浮かべると目を閉じた。
 ――月はまだ、断罪の使者としてそこにある。


 相沢祐一にとって、月は奇跡の象徴だったと言える。
 前の世界で最後に目にしたもの。
 変革を表すもの。
 かつて自分が救えなかった少女達を救うきっかけとなったものだった。
 そしてあの世界で祐一は”彼”と千早と静希と出会い――変革のための力を得た。
 確かに変革は起こり、少女達の運命は変わった。
 眠るべき運命。
 死すべき運命。
 消えるべき運命は砕けた。
 彼女たちは幸せになる。
 その筈だった。
 彼女たちはずっと笑っていられる。
 その筈だった。
 しかしその変革は――彼にとっては危険なものだった。
 その代償は、彼自身の存在。
 しかし今、彼は確かに存在している。
 千早と静希――聖と魔が肩代わりしたからだ。
 だから、というわけではないが――
 祐一は二人を大切な存在として認識していた。
 あの8人と同等――もしくは、それ以上に。
 そして、新たな約束。
 千早と静希と交わした約束。
『自分はいなくならない』
 その約束を祐一は思い起こしていた。
 しかし。
 その約束は――
 守れるのか?と。
 守れるのだろうか?と。
 問い掛けても、答える者は居ない。
 その約束を守れるかどうかは祐一自身にかかっているのだから。
 守ろうと思ったら守れる約束。
 守りたいと思っている約束。
 その約束が。
 その絆が、祐一を支えている。
 もしもその約束を守れなかったら――?
 守りたい。
 守っていきたい。
 そう思っている。
 それでも、何故――
 こんなにも不安になるのだろうか?
 理由は解っている。
 変革。
 その余波がまだ残っている。
 まだ、変わりきっていないのだ。
 そう。
 何かが足りない。
 安定のために、何かが足りない。
 でも、何が足りない?
 どうすればこの世界を安定させることができる?
 分からない。
 分からない。
 分からない――!
 どうすればいいのか。
 何が為すべき事なのか。
 祐一は思考の迷宮に入り込んだまま、目を閉じた。
 ――月はまだ、死と再生の象徴として空より見下ろしている。



 月が照らしていた。
 遙かな空より無慈悲に、現実を照らしていた。
 今、夜空に浮かぶ月は――
 過去・現在・未来と存在し続けるはずの月は――
 運命を知るための標にはならない。





『我は空
 全き空
 遙か蒼穹より見守りて
 汝が運命を見据える者』





―continuitus―

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