Locus 05-01 "prima luce"





「さて・・・そろそろ準備始めないとな」





 その朝、祐一は夜明け前に熾きた。
 弁当を作るため。
 それもある。
 3人分の朝食を作るため。
 それもある。
 しかしそれ以上に――
 夢見が悪かった、と言うのがあった。
 その内容は記憶に残ってはいない。
 ただ判るのはそれは悪夢だったと言うこと。
 ――悪夢?
 呟いて、祐一は自嘲。
「何を今更・・・」
 そう。
 何を今更恐れる?
 恐れるべきは、多分――現実の方だろう。
 壊れかけた現実。
 なんて綺麗で、なんて儚くて、なんて危なっかしい世界。
 いや、それ以上に――
 約束を破ってしまうかも知れないという事実。
 それこそが真に恐れるべき事だろう。
 しかしそれよりも今は――
「・・・弁当、作らなきゃな」
 苦笑しつつ、冷蔵庫を開けてみる。
 ベーコン。
 ピーマン。
 卵。
 ホウレンソウ。
 等々。
「ふむ」
 呟いて、少しばかり思案。
 した後、祐一は迅速に行動を開始した。
 ベーコンとピーマンを同じくらいの大きさに切った後、ごま油で炒めてみたり。
 ホウレンソウのおひたしを作ってみたり。
 作る数量は約3人分。
 とはいえ少々少なめにしているから2.5〜7人分と言ったところか。
「栞のアレは――凄かったな」
 あの世界でのあの量。
 今となっては望むべくもないだろうが。
 しかしその変化こそ――
 祐一自身が望んだことの代償の一つであるのも事実。
「ま・・・仕方ないよな」
 微苦笑。
 しかし、どこか誇らしげに。
 その表情も一瞬。
 すぐに飄々としたいつもの表情に戻って、呟く。
「んで・・・朝だな」
 む、と少しばかり悩んで。
「アレにするか?」


「祐一、おはよ!」
「祐一さん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
 もはや慣習となったように――実際にはまだ一週間も経っていないのだが――挨拶する。
 あまりにも馴染んでしまっていることに気付き、祐一は苦笑。
「ん、どしたの?」
「どうかしたんですか?」
 変わらない口調の千早と、少しだけ砕けた口調になってきた静希。
 2人とも馴染んでいること自体に疑問はないらしい。
 そのことに少しばかり驚きつつも、
「あ、いや何でもない」
 微笑う。
 ――誰かが側にいてくれるのは。
 やはり、嬉しいと思ったから。
 その笑顔に一瞬、千早も静希も見入った。
 見惚れたのではない。
 儚さ。
 危うさ。
 強さ。
 優しさ。
 そんな色々なものが浮かんでいる笑顔に見入っていた。
 ――何かあったの?
 千早は本当はそう訊きたかった。
 しかし、訊けない。
 何かあったら話してくれるはず。
 そう、信じたかったから。
 ――わたしでは頼りになりませんか?
 静希は本当はそう訊きたかった。
 しかし訊けない。
 本当に助けが要る時はきっと話してくれる。
 そう、信じたかったから。 
 その代わりに、2人が口にしたのは――
 朝ご飯は何か、という質問だった。
 見事に揃っていたので、つい――
 祐一は笑った。
「あ、何だか酷い」
「笑うなんて酷いです」
 むー、と睨んでいる2人。
 しかし、どことなく――
 安心したのも事実。
 ――祐一はここにいる、と。
 そのことが実感出来たから。
 祐一はそんな2人の心境を知ってか知らずか涙を拭いながら、
「朝がゆ。たまにはいいだろ?」
 鍋を持ってきた。
「ちょっと薄味だから」
 言いつつも、まだ涙が滲んでいる。
 ――まだ、大丈夫。
 ――まだ、ここにいる。
 そのことに安堵し、3人は――
「んじゃ、頂きます」
「頂きます」
「いただきま〜す♪」
 食事を開始した。


「じゃ、そろそろ行くか?」
 お茶を飲んで満足そうな吐息を一つ。
 その後、祐一は切り出した。
「そうだね」
「そろそろ行きましょうか?」
 うん、と3人は歩き出した。
 青い、空の下へ。
 いつもなら祐一の後を千早と静希が追いかけていく格好だが、今日は祐一が二人の後を追っていた。
 別段それだけなら気にすることもないのだろうが、朝のことがあったからだろう。千早も静希も心配そうに祐一に訊いた。何かあったのか、と。
 それに対する祐一の答は微苦笑。
 たまにはいいじゃないか、と。
 それ以上は何も訊けず――二人は祐一の前を歩き出した。
 後ろを気にしながら。
 

 ゆっくりと。
 ゆっくりと、歩く。
 あの世界では望むべくも無かったな、と苦笑。
 この世界でも――変わっていないようで。
 再会――祐一から見れば再会のその日も、彼女達は駆けていた。
 変わったこと。
 変わらなかったこと。
 色々考えてみる。
 
 例えば名雪。
 どこか――そう、どこかに陰があるのは何故だろうか?
 普段はそれさえも感じさせないほどなのに。
 まだ、傷があるのだろうか?
 この世界でも。
 あの世界と変わってしまったこと――
 彼女には祐一の記憶がない。
 つまり、幼い頃の心の傷は――無い。
 無いはずだ。
 だから、気楽に笑っていられるはずだし、事実普段はよく笑っている。
 お姉さんということで多少はしっかりしてきたようにも見える。 
 ――ねぼすけなのは相変わらずだが。

 例えばあゆ。
 彼女は事故に遭わなかった。
 つまり、彼女は彼女としてここにある。
 ただ、両親を失ったことは大きな傷となっているだろうが――
 秋子が引き取って、大きな愛情を注いだからだろう。
 あゆは秋子を本当の母親のように慕っているし、名雪や真琴とも仲のいい姉妹として暮らしている。
 食い逃げも全くしていないらしく、鯛焼き屋のお得意さんらしい。
 呑気なのは相変わらず。
 ――うぐぅなのも相変わらずだが。

 例えば真琴。
 彼女は完全に人間となっている――はずだ。
 つまり、消えるべき運命とは決別している。
 秋子が彼女を引き取っていることは薄々想像はついていたが、正体まで知っていることは祐一にとっては計算外だったろう。
 しかし秋子も、他の7人も真琴を拒絶することなく、仲良く暮らしている。
 だからだろうか。
 子供っぽい表情。
 幸せそうな表情を真琴はよく見せる。
 ――挑戦的な言動は相変わらずだが。

 例えば栞。
 彼女の病は祐一が消し去っている。
 つまりは完全な健康体。
 なのだが――
 あの体型は病気のせいかと思ったらそうではなかったらしい。
 こればかりはどうしようもない。
 全くどうしようもない。
 香里と自分の体型を比較して一人沈んでいることだろう。
 全く相変わらずの体型。
 ――バニラアイス好きなのも相変わらずだが。

 例えば香里。
 栞が健康体であるこの世界では、栞を拒絶してはいない。
 そこら辺の姉妹よりもよっぽど仲が良いのではないだろうか。
 明るい表情も見せるようになっている。
 時折ぼけーっとしているようになったのは、やはりこの世界ならではなのだろう。
 あの世界の香里はいつも気が張りつめていて、気が安らぐどころじゃなかったろうから。
 ――突っ込みがキツイのは相変わらずだが。

 例えば美汐。
 彼女に関しては傷は完全に言えているとは言い難い。
 彼女が仲が良かった”あの子”が消えたという事実は消えてはいないのだから。
 それでも、真琴の存在が大きかったのだろう。
 暗い、という印象はない。
 口調も随分明るいし表情も年相応。
 ――妙に大人びた雰囲気は相変わらずだが。

 例えば舞。
 祐一が帰らなかった――魔物と闘ってきたという記憶はない。
 つまり、他人を拒絶する理由がない。
 事実、同性異性同級生下級生を問わず憧れている生徒は多いらしい。
 口数も――あの世界に比べたら格段に多い。
 笑顔も結構見せるようになった。
 多分、一番変わったのは舞ではないだろうか。
 ――時折見せる子供っぽい仕草は相変わらずだが。

 例えば佐祐理。
 彼女にとってトラウマとなっていた弟の死。
 それが無い以上、トラウマはないはず。
 つまり、彼女は自分を『私』と呼んでいていいはずだった。
 しかし――彼女は自分を『佐祐理』と呼んでいる。
 結局、ただの癖だったのかも知れないが――
 ただ、笑顔に影はない。
 手首にも傷はない。
 佐祐理は『赦されて』いた。
 そのはずだ。
 微妙に意地悪なところが出てきたのはご愛敬だろう。
 ――あの、優しい笑顔は相変わらずだが。

 例えば千早。
 彼女は聖として生まれ、今は人としてある。
 このこと自体大きな変化だ。
 翼が消えた代わりに得たのは大地を踏みしめ駆ける足。
 彼女は色々なものを失い、色々なものを手に入れた。
 そして人としての生活は、彼女を大きく変貌させた。
 神秘的な微笑の替わりに悪戯っぽい笑みを。
 物静かな雰囲気の替わりに元気な空気を。
 彼女は得た。
 ――あらゆる存在に注ぐ慈愛は相変わらずだが。

 例えば静希。
 彼女は魔として生まれ、今は人としてある。
 千早と同じく大きな変化だ。
 力の代わりに手に入れたのは自分自身が前に進む意志。
 彼女も色々なものを失い、色々なものを手に入れた。
 氷の美貌の替わりに日なたのような柔らかい表情を。
 刃の様な鋭い言葉の替わりに聞くものを和ませる穏やかな口調を。
 彼女は得た。
 ――全てを見通すかの様な理知的な目は相変わらずだが。


 誰もが変わってしまった。
 しかし。
 もっと変わってしまったのは――
(恐らく、俺――か)
 空を見上げ、声にならない声で呟く。
 変わった、と言うよりも――
 変容、と言うべきかもしれない。
 変わり続ける世界で、それ以上の早さで変容している自分。
 変容の先、どうなるのか?
 微かな恐怖が祐一の脳裏によぎった。
 しかし、それでも――
(俺は――笑ってなくちゃいけない)
 笑うのを忘れたら、きっと心配させるから。
 そして。
(消えるんだろうな、多分――)
 兆候は現れていた。
 滝元が投げたコーヒーを受け止められなかった。
 しっかり掴んだはずなのに。
 縁が――薄れている。
 そのうち、よほど強い意志を持って接しない限り、縁の薄い存在から認識されなくなるだろう。
 それは生命に限らず、非生命も同様。
 世界は相互認識によって成り立っているのだから。
 だから、相手の認識が薄れた分をフォローするくらいの強い意志が必要になるだろう。
 今はまだ――大丈夫だが。
 しかし祐一はその兆候も不安も表面に出すことはない。
 微笑い続ける。
 心配させないために。
 彼女たちの笑顔を護るために。
 そして相沢祐一は――
 この世界から消えることではなく。
 彼女たちを悲しませることを恐怖する。





「まだ――この世界は俺の存在を許している。為すべきことのために――」





―continuitus―

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moveo Locus 04-09 "cogitabundus luna/caerum"