Locus 05-08 "regina monstrum,rediculus placide"





「来たんだな――また・・・」





『本当に久しぶりですね。
 憶えていますか?私を――』
 腰まで届く長い髪を風に揺らしながら、たおやかに微笑むその女性。
 外見的には――祐一と同じくらいだろうか。
 しかし、その表情は――ずっと年上。永い、あるいは永すぎる時を越えてきた様にも見える。
 浮かべているのは、微笑み。
 全てを見透かし、見据えている様な微笑みだった。
「ああ、憶えているよ」
 その微笑みに祐一は記憶を辿り、その名をすくい上げた。
「久遠さん、でしたよね」
 名前を覚えられていたのがやはり嬉しかったのだろう、久遠は満面の笑みを浮かべた。
『当たり、です』
 祐一の表情に浮かぶのは、僅かな驚愕。
「あなたは――変わりませんね」
 その外見は7年前――祐一がこの場所に来た時と変わらない様に見える。
 今の祐一とさほど変わらない様に見える、その外見。
 しかし現実は彼女は幾万、幾億の夜を越えた存在である。
 妖の女王――久遠はくすりと笑い、楽しそうに告げた。
『あなたは――ちょっとだけ、礼儀正しくなりましたか?』
「ぐあ、言わないで下さい」
 祐一は頭を押さえ、苦笑。
『私としてはむしろ――昔のあなたの言葉遣いの方が好ましいのですが』
 少しだけ棘を含んだ声で、久遠。
『一緒に遊んだ、あの頃の方が』
 どうやら丁寧な言葉遣いが気に入らない様だが、しかし祐一は周囲の妙な殺気故に言葉遣いを崩せずにいる。
「あの頃は――俺の世界に帰るまでは、久遠さんがここの女王なんて知りませんでしたから」
 別れ――祐一が本来あるべき世界に帰る間際になって、久遠は自らの正体を教えたのだ。
 それに祐一は気絶するほど驚いた。
 その時を思い出し、あんなに無茶苦茶だったのに、という言葉を祐一は呟きかけ、飲み込んだ。
 しかし久遠はその沈黙の意味を理解したらしい。
 浮かべたのは悪戯っぽい笑み。
『今でも変わりませんよ。私は、私のままです』
 その表情は7年前そのままで、祐一は一瞬言葉を失った。
 7年前、遊んでくれたやけに明るくて、そして優しかった”お姉さん”の表情。
 懐かしくて、嬉しくて。
 しかし、あの頃とは違う――その様でいて、変わらない何か。
 自分の心にある、本質。
 それは変わってはいない。
 これからも――後どれくらい”これから”が残っているかは解らないが――変わらないだろう。
 それを確認し、祐一も告げた。
「俺も――本質的には変わっていないと思います。
 ・・・・・・多分」
『ええ・・・それはすぐ解りました』
 その言葉通りなのだろう。
 でなければこんな表情は浮かべない、そう思わせる笑顔を久遠は浮かべていた。
 しかし、今祐一がこの場所にいるのは昔を懐かしむためではない。
 為すべき事。
 そのためだ。
 深呼吸一つ。
「今、俺がここに――」
 いるのは、という祐一の言葉を遮り、久遠は一刹那哀しげな表情を見せた後、微笑みながら言った。 
『・・・分かっていますよ。
 何故、あなたがここにいるのか。
 7年前のあなたに何が起こったのか。
 これからあなたに何が起ころうとしているのか』
 目を閉じて。
『全て解っています』
 歌う様に。
『あなたが今、ここにいるのは――』
 一旦言葉を切り、久遠は目を開いた。
 そして祐一の目を見つめ――試す様に。
 あるいは、確かめる様に。
『一つは――あなたが真琴と呼ぶ妖狐の二親を捜すため。
 もう一つは天野美汐の言う”あの子”の手がかりを見つけるため』
「・・・その通り、です」
『あなたの望みは・・・今、叶います』
 そして呼んだ。
『――魁利、和葉。・・・さあ』
 その”存在”の名を。
『はい』
『ここに』
 風が流れたと感じた時には、既に彼らはそこにいた。
 外見的には40ほどに見える夫婦。
 そして祐一と同じ年齢に見える、髪の短く切った少女。
 そして彼らは祐一に微笑みを湛えた表情と、懐かしそうな声音で言った。
『私たちが――あの子の親です。
 お久しぶりですね、相沢祐一さん』
 その声はあくまでも穏やかで、どこにも傷はない。そのことに祐一は驚いていた。
 そう、驚いていたのだ。
「あなた達は・・・俺を、恨んでいないのですか?」
『恨む?何でですか?』
 祐一は自分は恨まれて当然だと思っていた。それは――
「俺は――あなた達から真琴を奪ったんですよ?
 いや、それだけじゃない。俺はあいつの本当の名前――あなた達が付けた名前までも奪ってしまった。なのに・・・」
 自分の子供と引き離されて、その引き金となった存在を恨まない親が在るだろうか?
 ましてや、祐一は一度――
 そのことを、彼らは知っているはずなのだ。
 時から切り離されたこの世界で、見ているはずなのだ。
 しかし彼らは――微笑っている。
『正直言って、最初は君を恨んだ。しかし・・・』
 少しだけ憮然とした、しかし祐一を赦している声で真琴の父――魁利。
 彼はそれまでの憮然とした表情を一変させた。
 まるで、自分の子供を見る様な表情に。
『私は知っている。君は私の娘を助けるため君自身の存在を消しかけたことを。
 なら君は・・・娘の恩人じゃないか』
『あの子は、既に”沢渡真琴”という名前で存在が固定されていますから、今更どうこう言うつもりはないですよ。それに、あの子は幸せなんだから。それ以上何を望むんですか?』
 祐一を癒す様に、真琴の母――和葉。
 そして。
『あたしは知っているよ。
 祐一が、真琴と美汐のために頑張ってくれたことを。・・・ありがと』
 懐かしそうな声音でこう言ったのは、真琴の姉だろうか。 
『あたしは――美汐が”あの子”と呼んでいた妖狐。
 初めまして、じゃないよね?』
 先ほどまでの穏やかな笑みから一転、悪ガキの様な表情に。
 まるで、久しぶりに友人にあったかの様な表情。
 その表情が引き金となり、思い出す。
 思い出す。
 思い出す。
 記憶の角に転がっている、この世界での日々を思い出したなら、浮かんできたのはいつも真琴と一緒にいた”少年”の姿。
 でもまさか、と思ったものの、顔にどこか面影がある。
 ついでに真琴にもどこか似ている。
 結論。
「・・・あ!お前幸耶か!」
『当たり』
 嬉しそうに、本当に嬉しそうな表情の幸耶。
「自分のことオレとか言ってなかったかお前?」
 その問には、遠い目で、
『あの頃にはよくあることだよ』
 と答えて。
 なつかしーねぇあはは、と幸耶は祐一を抱きしめ、背中を思い切り叩いている。
 一瞬にして和んだ――あるいは和みすぎた祐一と幸耶が気に入らなかったのか、久遠は割り込む様に話し出した。
『そもそも、あなたの世界で妖が消えたとしても完全に消えるわけではないんですよ』
 そして祐一を一瞬睨んで。
 睨まれた祐一と幸耶は離れたものの、祐一は何故睨まれているのか解らない様な表情。
 幸耶は、といえば――鈍感だね、と呟いて微かに苦笑――を浮かべかけたところを久遠に睨まれ、そっぽを向いている。
 久遠は大きな溜息一つ。
 しょうがないな、と呟いて。
『消えるのはいわば影です。
 力ある幻像。確かにそこにあると錯覚する虚像。
 あなたの世界から消える、と言うことは――その虚像を映す力を失うに過ぎません。
 虚像を造り出すのは命に関わる、というのは事実です』
 それは事実。
 もしそうでないなら、幸耶がここにいる理由はない。
 ――幸耶が美汐の言う”あの子”であるならば。
 しかし、それは事実なのだろう。
 久遠は――この様な時に嘘をつかないだろうから。
『消えはしないんです。
 ――二度と人の世で力ある虚像を造り出すことは出来なくなりますが』
 そこで久遠は言葉を切り、目を伏せた。
『ですからあなたの二つ目の願いは――叶えられることはないでしょう。
 そう。――この世界では』
 耐えられない、といった風に。
『しかしあなたの世界で、ヒトとしての実体を得れば――
 あなたの願いは、二つとも叶います』
 その言葉の意味に気付かずにいるには――祐一は聡すぎた。
「なるほど、ね・・・」
 苦笑。
 結局、代償は必要なのだ。
 ならば――どうせ消えるなら、幸せを残して消える。
 目を伏せて息を吐き、少しだけ耐えて――顔を上げた時には、祐一は既に笑顔になっていた。
 そして妖狐の親子を見つめて、自分の願いを口にした。
「俺はあなた達に――出来れば、だけど。人の世で人として、暮らして欲しい。
 勝手な言い様だって事は解ってるんですけどね」
 予想通りの祐一の言葉と表情に、久遠は辛そうな表情を見せた。しかし、目は逸らさない。祐一の目を見据え続けている。それは真琴の肉親達も同様だった。
「しかしあなた達が人の世界で生きて行くには――あまりにも障害が多い。
 人として生きていくためには、その力を――命を削らなきゃいけないはずでしょう?
 でも――俺はそれを願わずにはいられない。
 あいつらの――真琴と天野のために」
 祐一の表情は変わらない。柔らかい微笑みを浮かべている。
「ずっと見てたなら分かってると思いますけど――俺は、もうすぐ消えるでしょう。
 いつ消えるのか、消えた後どうなるかは俺には分かりません。
 魂が残るかもしれないし、残らないかもしれない」
 しかし、話の内容は――表情にはそぐわない、あまりにも重いもの。
 しかし祐一は――微笑み続けている。
「どちらにせよ、俺が存在したという事実は残るでしょう。
 俺の世界には勿論、この世界にも俺が存在したという事実が刻まれているはずです。
 俺は――7年前、俺の世界の”俺という存在”を代償に――人間としての真琴の存在を紡ぎ、栞や一弥の存在を繋ぎ止めました。
 でも、今回は――俺の世界に刻まれた記憶だけでは無理でしょう。
 何しろ俺は――消えかけているのだから。
 いや、今の俺は最初からただの虚像だったのかもしれません・・・」
 祐一は一度言葉を切った。
「でも、俺の世界だけじゃなくて、この世界の記憶も使うなら――きっと。
 あなた達が人間として、俺の世界に存在するだけの力は――織り上げられるはずです」
 あくまでも笑顔のまま。
「俺は――あいつらには笑っていて欲しいんです。俺が居なくても――居なくなっても、ずっと。
 ずっと、笑っていて欲しいんです」」
 少なくとも表面上は笑顔を保ち続けたままで――
「だから、俺は――あなた達が人となるために・・・」
 祐一は――その一言を口にした。
「あなた達が人としての命を得るために・・・」
 凄絶な、決意を。
「――俺は、俺自身の存在を代償にします」





「・・・参ったな。結局、こうするしかないのか――」





―continuitus―

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