Locus 06-04 "gemitus sivut imago"





「なんて・・・あっけなかったんだろう」





 夕日の紅――血を思わせる紅の中。
 道路を挟んだ向こう側。
 トラックが、何かの冗談のようにショーウィンドウに突っ込んでいる。
 あのトラックの下だろうか。
 それとも、トラックと壁の間だろうか。
 そこに、祐一はいるのだろう。
 本当はすぐに走っていきたかった。
 でも――出来なかった。
 怖かったから。
 本当に、怖かったから。
 呆然としていたのは実際には1分にも満たなかっただろう。
 事故のため止まってしまった車の間を縫い、ようやく少女たちは走り出した。
 なぜなら、現実感が無かったから。
 なぜなら、そこに漂う紅は、夕日の紅だけで。
 そこにいるはずの人から流れ出る血の紅は、見えないから。
 もしもそこに本当にいたのなら、流れてくるだろう紅が見えないから。
 ――あの一瞬で身を伏せたのだろう、と。
 きっと、あの隙間で祐一は気を失っているに違いない。
 そう思い、トラックの下を覗き込んでみる。
 ――いない。
 ならば、間一髪で避けたのではないか。
 そう願い、彼女達は反対側に回り込んだ。
 そこで祐一が冷や汗を垂らしつつも笑っていることを願って。
 ――しかし、いない。 
 秋子が、放心しているだけ。
「祐一、さん・・・?何で・・・?」
 その言葉が、祐一は確かにそこにいたことを示している。
 しかし、周囲は――
「運が良かったなぁ、誰も巻き込まれなかったなんて」
「え?嘘だろ?男の子が巻き込まれたじゃないか」
「ただの見間違いだろ?だって血とかも流れて来ないじゃないか」
「見間違いじゃないってば。いきなり現れてそこの人を突き飛ばしたじゃない」
 ちぐはぐで。
 いた、という人といなかった、という人に2分されて。
 ――まるで、見える人と見えない人の2種類がいたかのように。
 考え込む。
 ダレモマキコマレナカッタ。
 オトコノコガマキコマレタ。
 その言葉の意味を。
 その意味を、10人の少女のうち2人だけは理解してしまった。
 つまり。
 あの瞬間に祐一の――存在が、解けた。
 いや、ずっと前から解けかけていたのだろう。
 分かっていた。本当は、分かっていた。
 祐一の様子がおかしいことは、分かっていた。
 しかし、気付かないふりをした。
 ――認めたくなかったから。
 しかし、目の前の光景は――祐一が”消えた”ことを示している。
 事故で死んだわけではない。
 もしそうなら、何らかの痕跡があるはずだ。
 しかし痕跡はない。
 つまり――”消失”。
 この世界のどこにも、”相沢祐一”は存在しない。
 ――少なくとも、実体を持った生命としては。
 しかし、まだ”相沢祐一”の存在は赦されている。
 何故なら、自分たちは祐一のことを憶えているから。
 そう、祐一は確かに存在している。
 ひょっとしたら、すぐ側に。
 それでも話すことは出来ない。
 触れることも出来ない。
 祐一の声が聞けることはない。
 祐一が自分たちを撫でてくれることもない。
 じわり、その事実が浸透して。
「うそ・・・つき・・・」
 千早は、叫んだ。
「嘘吐き、嘘吐き、嘘吐き!いなくならないって言ったじゃない!大丈夫だって言ったじゃない!」
 そして静希も。
「なんで・・・なんでなんですかぁ!何で祐一さんが居なくならなきゃ行けないんですか!何で!」
 そこにいながらそこにはいない、祐一を責めるように。
 8人の少女たちはただ呆然として――慟哭しているだけ。
 彼女達には何がどうなったのか、分かっていない。
 ただ、”相沢祐一”が消えたという事実。
 それだけしか理解出来ていない。
 そこにはただ、嘆きだけが満ちていたのだが――嘆きは、しかし奪われた。


 もし今、祐一に身体があれば後悔の眼差しで見つめていただろう。
 しかし今の祐一は、意志のみの存在。――そんな祐一に、その存在は声をかけた。
『祐一さん。迎えに来ました』
 ――妖の女王、久遠。そして――過去への誘い手。
[久遠さん・・・手間をかけます]
『いえ。お気になさらずに。では・・・参りましょう』
 連れだって丘に向かおうとして――
 彼女達の慟哭に耐えきれず、祐一は移動を止めた。
『どうなさいました?』
 怪訝そうに聞く久遠。
 祐一は弱く、呟く様に、久遠に伝えた。
[・・・あいつらの記憶だけど、消すこと出来ませんか?]
 と。
 久遠は――呆気なく答えた。
『頼まれなくてもやるつもりでした。必要なことですから』
 久遠は祐一の動揺を感じ取り、その動揺に答えるように言葉を続けた。
『つまりは祐一さんとあの子たちとの間の”縁”です。
 あの子たちがあなたを憶えている限り、”縁”は存在します。精神だけとなったあなたはその影響を強く受け、この世界に縛られてしまいかねません。
 つまり、あなたはどこにも行けなくなり、願いは叶わなくなります』
 久遠は祐一を見つめ、誘致は肯き返した。そして久遠は更に言葉を続けていく。
 少女たちの記憶を封じる理由を。
『ですが、その”縁”があなたの存在を繋ぎ止めているのも事実です。つまり、そのまま置いておくことは出来ませんが、完全に消し去ることも出来ません。・・・ですから封印します。誰かが居たのは憶えているけど、それが誰なのか憶えていない。しかし、誰なのかを憶えていないことは――気にならない。そんな風に』
 そして久遠は哀しそうに――やがて来たる祐一の運命を告げた。
『祐一さんの存在が無くなってしまったら、それも意味はないのですけど』
 祐一は願っている。
 少女たちが微笑っているための世界を。
 少女たちの願う世界への変革を。
 そして、祐一は――自覚している。
 そのためには、自分の存在を代償としなければならないことを。
 だから、伝えた。
[俺が完全に消えてしまうまで保てば――それでいいです]
 今なお慟哭している少女たちを辛そうに感じながら。
[泣かれてるよりは・・・ずっといいから。
 ――久遠さん。お願いします]
『・・・では、行きます』
 その、久遠の言葉と同時に一瞬強く大きな風が吹いて。
 あまりにもあっさりと、少女達の記憶を封印した。


「あれ?何で私は達泣いているのでしょう・・・?」
「砂でも目に入ったんじゃないですか?」
「そうね。栞の言葉通りだと思うわよ」
「でも良かったよね、お母さんが無事で」
「あう・・・あそこで転んでなかったら危なかったよね」
「事情徴収に連れて行かれちゃったのは災難だけど」
「さって、一件落着ってことで・・・静希、夕ご飯何にしよ?」
「うーん、そうですね。豚の生姜焼きなんてどうでしょう?」
「佐祐理、私たちも行く。母さん、多分待ってるから」
「そうですね、舞。佐祐理、今日は腕を揮っちゃいますよー!」
 そう、あまりにもあっさりと。
 何もなかったかのように――彼女達は笑いながら去っていって。
 もはや心だけとなった祐一が残された。
[・・・解ってたけど、さ。
 間近に見ると――辛いな]
 自嘲めいた響きで、祐一の意志が届いた。
 久遠はその響きに、微かに哀しそうな顔を見せた。
[ありがとう、久遠さん。・・・これで、いいんだ。
 あいつらが泣いてたら・・・俺は何も出来なくなっちまうから。
 どっちにしてもやらなきゃいけないことは変わらないんだけど、やっぱり笑っていて欲しいんだ。
 こうなった俺に出来ることは――そんなに無いんだけど。
 あいつらの側に居るなんて、出来ないけど――]
 そして久遠が感じたのは――晴れやかな、意志。
 まるで微笑っているかのような。
『強いのですね・・・』
 悼むような久遠の声にも、祐一はただ短く。 
[弱いよ、俺は]
 しかし――その意志こそが強さを物語っていた。
 とはいえ、なんて儚い強さだろうか。
 狂気の上、願いによってバランスを保っている。
 その願いが強いが故の、強さ。
 しかし同じように狂気も強くなっている。
 もうこれ以上ここに居させてはいけない。
 この世界にいる一分一秒が祐一の心を削っているのが久遠には分かった。
 だから――告げた。
『では、行きましょうか。あなたの意志、あなたの願いを楔として、世界に叩き込むために』
 時の狭間に至る門を開き、祐一に手を差し伸べながら。 
[楔、か・・・]
 だが、本当に連れて行く前に――
 祐一を完全に消すために連れて行く前に、久遠は確かめておかなければならなかった。
 本当に、いいのかと。
 たとえそれで祐一が傷付いたとしても――確かめなければならなかった。
『祐一さん。
 これから改変――最後の改変に向かうわけですが――あなたに知らせておかなければいけないことと、確認しておきたいことがあります』
 目を伏せ、心を落ち着かせて。
 告げる。
『あなたは奇跡を起こしました。
 身体の病を癒し。
 心の病を癒し。
 人の身体を形作りました。
 でも、全ては等価。
 だからあなたは身体を失い、心を失い、存在を失うところでした。
 しかし、あなたは聖と魔によって存在を――体と心を取り戻しました。
 その時、本来聖と魔は消えるはずでした。
 しかし、彼女達は<彼>によりその存在をもう一度形作られた、と。
 そうあなたは思っているらしいけど、聖と魔は再生されたわけではありません。
 一度完全に失われたものを再生することは出来ないのだから。
 彼女達は力を代償として、再構成されただけ。
 その結果、あなたはまた失われるところでした。
 あなたは彼女達の力と存在を代償に再構成されたのだから。
 しかし幸運にも彼女達の力は少しだけ余って、それであなたは再生されたけど、物質としての存在を再生するには足りませんでした。
 つまり、あなたは実際には人として存在したわけではないのです。
 そう――あなたは、力で形作られた幻影でした。
 過去、あなたは存在を代償として――奇跡を起こしました。
 ですが、死の運命を消したわけではありません。
 あくまでもねじ曲げただけです。
 死の運命はやがて――必ず、ねじ曲げた本人に返ってきます。逃れる術はありません。
 だからあなたは死んだのです。彼女達の身代わりとして。
 生命として。
 物質として。
 力として。
 そしてあなたは更なる死の運命を変えるつもりなのでしょう。
 そうしたら――あなたに訪れるのは存在の死。
 そう、絶対なる死です。
 それを理解していますか?
 そして、そもそもあなたはおかしいと思ったことはありませんか?
 なぜ、あなたは不完全なのか。
 なぜ、今更この街に戻ってきたのか。
 なぜ、転生した聖と魔がこの街にいたのか。
 出来すぎていると思いませんでしたか?
 もう分かったでしょう。
 全ては――、<彼>の戯れ事。
 苦しみもがくあなたを見て楽しむための、唯の戯れ。
 そう考えたことはありませんか?』
 哀しそうな、澄んだ瞳で祐一を見つめながら久遠は、問い質した。
 その、久遠の言葉に対する祐一の答えは――。
[唯の戯れ事でも、さ。
<彼>は俺に力をくれた。あいつらが笑ってられる世界にするための力を。
 それだけで十分だ。
 ・・・正直、死にたくはないし、忘れられるのは嫌だ。
 あいつらの側にいたい。
 あいつらが俺のこと忘れるなんて――気が狂いそうになる]
 その衝動に耐え、祐一は更に意志を伝えていく。
[でも、さ。
 あいつらが俺を忘れている頃には俺自体存在しないんだろ?
 そもそも、だ。前にも言ったとおり、俺はただ――あいつらに、笑っていて欲しいだけなんだ]
『自己犠牲が過ぎます』
[前に佐祐理さんに言われたな、その言葉]
 そして、祐一は柔らかい光を放った。
 その色が伝えるのは――微笑み。
 だから。
『バカだバカだと思ってはいましたが――訂正しましょう。
 あなたは大莫迦です』
 久遠は、”時の狭間”で。
『なんて優しい・・・優しすぎる、莫迦なひと』
 祐一の<仮初めの身体>を創造し。
『だからこそ――私は・・・
 あたしは、あなたを・・・
 祐一君を助けてあげたい。
 でも、多分――無理。
 あたしじゃ、無理』
 そして、強く強く抱きしめた。
『ごめんね。
 あたしは――こんな事でしか、祐一君の力になれない』
 ――泣きながら。
 祐一は、そんな久遠の方を抱きしめて――
 微笑った。
 本当に、嬉しかったから。 
「バカを言わないで欲しい。
 これで――誰も笑ってられるんだ。十分すぎるほど力になってくれてるよ」
 久遠は祐一の胸に顔を埋めたまま、一回だけ深呼吸し、離れた。
 そしてまだ泣き声のままで、<幼い頃、一緒に遊んだ久遠>から<妖の女王である久遠>に戻り――扉を作った
『では・・・せめて――暫しの間・・・休んでいって下さい。
 あの、世界――もう一つの、華音で。
 あなたの心が壊れないために』
 そして――もう一つの華音への扉が、開いた。
 その扉に入る前に祐一は振り向き、呟いた。
 ――祈りのように。
「名雪。
 あゆ。
 真琴。
 天野・・・いや、美汐。
 香里。
 栞。
 舞。
 佐祐理さん。
 千早。
 静希。
 俺は、奇跡を起こす。
 でも、みんなの側にいることは――もう出来なくなる。
 だから――
 みんなが、悲しい時には、俺は慰めてやれない。
 楽しいときにも、一緒に笑ってやれない。
 白い雪に覆われる冬も・・・
 街中に桜の舞う春も・・・
 静かな夏も・・・
 目の覚めるような紅葉に囲まれた秋も・・・
 そして、また、雪が降り始めても・・・
 俺は、もうみんなの側に戻ることはない。
 でも・・・約束する。
 みんなが笑っていられる世界に治すことを。
 みんなが願っていた世界に治すことを。
 だから――
 だから、ずっと笑っていて欲しい。
 それが、俺の最後のお願いだ。
 俺は、みんなのことが本当に――」
 本当に、好きだったんだから。





「――さよなら」





―continuitus―

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