Locus 06-07 "insanirus ex indignabundum"





「まずは・・・」





 時の狭間に幸耶達を残したまま、祐一と久遠は華音の空の下にいた。
 祐一は今いる時間を認識し、呟いた。
「場所は――駅前。
 この時間軸でやるべき事は――」
 思い出す。
 久遠に教えられた、和雪――祐一の叔父であり、名雪の父であり、秋子の夫である男性――が死に至った経過を。
 出張から帰ってきた和雪が駅の外に出て、タクシーを待っていた時のこと。
 何の面識もない、ただの通りすがりの男が唐突に和雪の胸を包丁で貫いた。
 動機は――無かった。
 ただ、誰かを殺したかったからだという。
 しかも、その男はへらへらと笑っていたという。
「なんだ、やっぱり死ぬんだ」
 そんな言葉と共に。
 視界が怒りのために紅く染まる。
 まさか、と思った。
 祐一は事故だったと聞かされていたのだから。
 思えば――子供には重すぎたからだろう。だから。
「秋子さんは、事故だって言っていた――か」
 どれくらい重たかっただろうか?
 その事実を隠し、自分だけで抱え込むことが。
「・・・・・・だけど」
 そう、名雪は――知っている風な素振りはない。
 自分の父親が殺されたと言うことなど。
 あくまでも事故だったと信じているのだろうか。
 だが、華音の街に住んでいる以上、何らかの形で”自分の父親は殺された”と言う情報は入ってくるはずだ。
 ならば。
 ――知っていて、なお事故だと信じているふりをしているのかもしれない。
 今となっては確かめる術はないが。
 今の祐一に出来るのは――自分がこの時間軸にいなければ奪われていた水瀬家の平穏を護ること。
 その為に、探す。
 その男を。


「久遠。まずは――」
 眼下に広がる街を見据えながら、祐一。
 それに答える様に、久遠。
『水瀬和雪さん、ですね』
「ああ。――和雪さんを死の運命から守る・・・」
 目は久遠の方には向けない。
 厳しい――いや、どこか暗い目で華音の街を見つめる。
 その暗さに久遠は気付いてはいない様に思える。
『――ええ。
 でも、憶えていて下さい。私は直接あなたの手助けは出来ません。
 あなた一人で、何とかして下さい』
 だから、ごく普通の声。
 ――気付かれてはいない。
 それに安心し、祐一は短く答えた。
「ああ」
『――あなたが何をしたいのかは分かっています。
 本当はそんなことして欲しくはないのですが――』
 しかし――見えないと言うことが妖の女王にとってどれくらいの意味があるだろうか?
 祐一の表情を久遠は視ていた。
 だから。
『しょうがないですね・・・
 あなたの為すべき事を成す。
 その為の世界を用意しましょう。ごくごく狭い場所ですけど、ね』
 と、苦笑。
 その雰囲気はすぐ祐一に通じ、
「――止めないんだな」
 と、意外そうな声の問いを生んだ。
『忘れてませんか?私は妖なんですよ。それに、祐一さんの身内の敵ですし、止める理由なんてありません。
 でも・・・くれぐれも自分を失わないで下さいね?』
 問い返されて、祐一はただ沈黙。
『祐一さん?』
「正直、自信がない。
 あいつを目の前にして、正気を保てるかどうか・・・」
 本音を、洩らした。
『耐えて下さい。
 でないと――あなたの、願い。
 あの子たちの笑顔が――』
 その言葉は、確かに祐一の心に届いた。
 だから。
「解ってる。ああ、解ってるさ。
 ここで俺が壊れたら・・・全てが中途半端になる。
 俺が望んだ世界にはならないって・・・だから、抑えるさ。
 抑えられる限りは・・・でも、もしも俺が我を失ったら――
 構わない。俺を無理矢理にでも”回廊”に連れ戻してくれ」
 微笑う。
 しかし、少しだけ暗い目のままで。
『・・・はい』
 久遠は何も言えず、ただ――
「じゃあ、行ってくる」
 祐一を見送った。



 場所と時間。
 それが特定出来ていれば、その男を見つけるのは容易かった。
「――いた」
 久遠に見せられたのと同じ、その男。
 振りまいているのは害意。
 誰でも良いから殺してみたい、という方向性のない、制御の外にある殺意。
「――和雪さんはこんな奴に」
 微かに、悔し涙。
 もうすぐ、駅から出てくるだろう伯父の笑顔を思い浮かべてみる。
 その幸せそうな笑顔が、この男の殺意の方向性を定めさせたのか。
(だが――今、ここには俺がいる。だから)
                        「悲劇は繰り返させない」
 祐一は呟きと同時に男に近付き、久遠によって用意された、隔絶された空間に引きずり込む。
 そして怪訝そうな男の手首を掴み――無造作に間接を外す。
 叫び。
 害を為すはずの自分が、義を為されているという事実に耐えかね、男は叫んでいた。
「痛いか?苦しいか?
 だがな・・・同情はしない。してなんかやらない」
 だが祐一は宣言し、冷たく男を見据えた。
 決して誰にも見せることが出来ない表情、誰にも向けられない感情で。
 それは狂気にも似ていた。
 オマエノセイデオレノタイセツナヒトタチガナイタ
 ソノクセニヘラヘラトワラッテイヤガル
 ユルセナイ
 ドウスル?
 コロスカ?
 イヤ、ソレジャオモシロクナイダロウ
 コロサナイママ、ヒタスラクルシメルベキダロウ
 ヒタスラクルシメテヤル
 コロシテクレトナイテコンガスルホドニクルシメテヤル
 ダガゼッタイニコロシテヤラナイ
 シエオエラブケンリナドアタエナイ
 クルシミユエニキョウキニニゲルコトモユルサナイ
 渦巻く負の感情。
 祐一は流れ出すそれを抑えることが出来ずにいる。
 垂れ流しにされる敵意と悪意、殺意と害意。
 それは、思いつきで他人の命を奪おうとした男の精神を容易く貫き――男は恐怖に囚われた。
 泣き喚き、
 許しを請い、
 土下座し、
 改心を誓うが、祐一は――
 冷たく。
「駄目だね」
 笑みさえ浮かべて。
「殺しはしない
 だけど、幾らでも痛みを与えることは出来る」
 嗤い。
「それに言ったろ?
 お前に恐怖を刻み込む、と」
 そして――
 男は久遠の恐怖を刻み込まれ――
 元の世界に放り出された。


「・・・くそ」
 制御していたつもりだった。
 だが、実際には――我知らず、祐一はあの男を殺そうとしていた。
 それを止めたのは――他でもない、今は祐一の記憶の中にしかない、大切に思っている人達が自分に向ける笑顔。
 そして、久遠の言葉。
 それらが命綱となった。
「・・・・・・」
 苦悩に満ちた目で、自分の手を見る。
 容易く人の命を奪ってしまいかねない、自らの手を。
「・・・・・・くそ!」
 何が違うというのか?
 あの男とどこが違うというのか?
 戯れに人の命を奪おうとしたあの男と?
「くそ、くそ、くそ、くそ!」
 和雪を助けることが出来たのは良い。
 それこそが最大の目的の一つなのだから。
 しかし、その達成感は同時に――祐一の中に潜む、ある感情をも目覚めさせていた。
 つまり。
”なぜ自分は消えるのに、俺の大切な人に害を与えるお前達は存在出来るのか?”
”そんな不条理が赦せるか?”
”赦せない、ならば奪おうか?”
 即ち、抑え込んでいた、害意を。
「はは、いいザマだよな?何があいつらの幸せのために、だ!」
 祐一の心の鎧に、ヒビが入っていた。
 それはごく僅かなもの。しかし、確実にヒビは入っていた。
 強い意志で編み上げられた、心の鎧に。
 その一手を穿ったのは、和雪の命を奪ったその男の嬌笑。
 そして自らが傷つけられる側に回ったときの弱さ。
 耐えられるはずだった。
 耐えられると思っていた。
 少しずつ現実味を帯びてくる、<完全な消滅>。
 心の鎧を砕き、狂気を呼び込む障気。
 恐怖。
 絶望。
 そして――
「があああぁあぁぁぁぁああああああっっっっ!」
 激痛。
 それは、まるで心臓を切り裂かれるような。
 痛みは続いていた。
 時に強く、時に弱く、そして時には感じないほどの。
 それが今――
 和雪を死の運命から守り抜き、<和雪が生きている世界であれ>という意志を世界に刻んだ瞬間から強くなっている痛み。
 それが今、最大のものとなっている。
 つまり――運命を変えた代償。
 負の感情と、意志を削る激痛。
 それらに負けそうになる。
 だが、まだ祐一は完全には負けていないのも事実だった。
 心を蝕み、化け物に変えていくそれらの負の感情に抗っていた。
 だから、戻ることが出来た。
 久遠の力によってではなく、自らの意志で。
 そして、誓いがある。
 他の誰でもない、自分自身への誓い。
「あいつらの・・・笑ってる・・世界のためなら・・・!」
 血を吐くように、唸る。
「まだ、耐えられる!
 俺はまだ・・・耐えられる!
 偽善だろうが何だろうが・・・
 俺は、あいつらが笑っててくれてたらいい・・・
 そのためなら・・・幾らでも、何回でも立ち上がってやる・・・!」
 その狂気と痛みを抑える。
 ――無理矢理に。
 心を少しづつ食い潰しながら、耐えている。
 もしも祐一に残された時間を<為すべきことを為す>ためでなく、泣くことに、心のままに叫ぶために使えたのなら少しは楽になっていただろう。
 しかし、そんな時間はない。だから、耐え続けている。
 それが、久遠には辛かった。
『祐一、さん・・・』
 だから、後ろから抱きしめて。
『いいんですよ。いいんです。
 我慢しなくて良いんです』
 慰める。
 しかし――
「・・・いや、もう大丈夫だ。
 俺は――泣いてちゃいけない。
 痛みに泣いている暇はない。狂ってる暇もない。
 あいつらの望んだ、本当にあるべき世界になるまでは――
 俺は大丈夫だ」
 こう言って、軽く微笑った。
 全然大丈夫じゃないくせに、微笑っていた。
 耐えかねた様に、久遠。 
『全然大丈夫じゃないじゃないですか・・・!』
 怒りながら、泣いていた。
『甘えて下さいよ・・・』
 あまりにも自虐的な祐一に。
『少しで良いから、甘えて下さいよ・・・』
 だが、それでも――祐一は、微笑う。
 微笑い続ける。
 微笑いながら、耐え続ける。
「すまない。
 今は――まだ、駄目なんだ。
 駄目なんだよ、久遠さん・・・」
 ――自らに与えられる罰に従順な咎人の様に。
 あるいは、殉教者の様に。
 しかし、久遠のその言葉が祐一を救ったのも事実。
 だから。
 久遠の心に応え、告げる。
「でも、ありがとう。
 その時が来たら――少しだけ、甘えさせて貰うから」
『はい。約束、ですよ?』
 そして久遠は右手の小指を祐一の前に出して。
 果たされるかどうか、それさえも分からないが――
 しかし、確かに祐一の支えとなる約束を交わした。





「・・・ありがとう」





―continuitus―

solvo Locus 06-08"causa refelte ridiculum"

moveo Locus 06-06 "foris ad res nova"