Locus 06-10 "precatio novissimus"





「どうか、みんなが──」





「久遠さん。
 あと、俺はどうすればいい?
 どうすればこの世界は俺の望んだものになる?
 教えてくれ。俺のやるべき事を」
 急ぐ様に、祐一。
 崩壊が近いのが分かるからなのだろう。その表情に余裕はない。
 この場にいる誰もが、その事に気付いていた。
 そんな砕けそうな空気の中、久遠は祐一にその方法を教えた。
 世界を変える方法を。
『世界に、意志を刻み込んで下さい。
 あなたの思い描く世界を。
 あなたが今まで変えてきた運命を、この世界に。
 こうあって欲しい、という理想の運命を現実の運命に上書きする様に。
 イメージすることは容易いはずです。
 書き換えられた世界のひな形を、あなたは目にしているのですから』
「・・・・・・」
 祐一は頷き、無言で地に手を当てた。
 そして浸透させていく。
 意志を。
 祐一は自分の思い描く<理想の世界>を重ね、現実世界を書き換えていった。
 その世界では、名雪は笑っている。
 和雪と秋子に囲まれて、朝は目をしょぼしょぼさせながら走って登校している。
 あゆも幸せそうで、食い逃げなんかもしていない。食い逃げなどしようものなら、かばった政志ごと吹き飛ばす美里の鉄拳が飛んでくるのだから。
 香里と栞は仲良さそうに学校へ走っている。時折服のことで喧嘩もするのだが、互いに支え合っている。
 舞はこの地まで移ってきたものの、自分の力を受け入れているからだろう、悲壮な光はその目にはない。
 佐祐理は一弥と一緒に遊んでおり、自分のことをわたしと呼んでいる。全ての罪はなく、手首を気にした風もない。
 一弥はややシスコン気味なものの、人当たりがいいからだろう。周囲に人が絶えることはない。
 真琴は姉と両親に囲まれて、気が強くて少しへそ曲がりなところはあるが、しかしその笑顔に暗さはない。
 幸耶は真琴の姉として、時には喧嘩はするがそれでも真琴を守るためなら非常識な程の力を振るっている。
 魁利と和葉はそんな二人を優しく見つめつつも、この子らはいつになったら女の子らしくなるんだろうと苦笑している。
 美汐は男だと思っていた<あの子>が男のふりをしていたことを知り、軽くショックを受けたのだが、しかし再会に喜んでいる。
 祐一が望むのは、そんな華音。
 そして別の華音では。
 相馬は鬼族の次期党首として、文句を言いながらも勉学に励んでいる。もっともサボったり寝ていることの方が遙かに多いのだが。
 更紗はそんな相馬に呆れつつ、そういえば私も竜族の次期の長なんですよねぇと溜息一つ。いっそ人界に逃げてやろうかなどと、こっそりたくらんでいる。
 久遠はそんな彼らを見守りつつ、人界に興味を寄せている。妖がここまで惹かれる人界を、しばらく見ていたいという願いを抱いて。
 そんな、理想の世界。
 その世界では、祐一にとって大切な人は皆笑っていた。
 ただ、そこに祐一だけがいない。
「これでいいのか?」
           「ああ、これでいいんだ」
「後悔はないのか?」
            「後悔はないと言えば嘘になるな」
「それは何故だ?」
           「そうすると決めたのは自分だから」
「戻りたいと思わないのか?」
                 「それは意味のない質問だな」
「それは何故だ?」
          「戻りたくても戻れないから」
「悔しくないのか?」
          「悔しいけれど、でもこれで笑顔が守れるなら」
 構わない。
 祐一は微かに迷いながらも理想を浸透させ、自らの存在を代償に世界に意志を刻み込んでいった。
 今に至るまでに世界軸に刻み込んだ意志の楔が活性化し、少女たちの死の運命を完全に書き換えていく。
 そして少女たちが生きており、幸耶たちが人間として存在する世界が<本来の世界>となったのと同時に――祐一が取り込んできた全ての死の因子が活性化した。
 励起した<死>は痛みという概念すら生ぬるい痛みを祐一に与えた。
 痛み。
 それは即ち存在の崩壊。
 しかし願いが叶う前兆でもある。
 祐一は痛みに耐えつつ振り返り――一瞬、顔を強張らせた。
 目の前にいる妖たちと人たちは、自分を知らない者を見る様な眼で見ている。
 つまり――この時点で、祐一を知るものはいなくなった。
 祐一は少しだけ目を伏せ、顔を上げた。
 そして、大切な人一人一人に向けてメッセージを投げかけた。
 痛みのために、途切れ途切れの声で。
 しかし、微笑いながら。
「千早。
 約束、破っちゃったな。ごめん。ほんの一週間にもならなかったけど、出会えて良かったよ。千早は笑い方変わったよな。あの世界では、本当上品に笑ってたのにこの世界じゃあんなに元気に笑って。その笑顔、もっと見ていたかったよ。
 静希。
 静希との約束も守れなかったな。出会えたこと自体、奇跡なんだろうけど・・・でも、逢えて良かった。そうそう、静希はあまり変わらなかったよな。笑う時はくす、少しだけ笑って。でも本当におかしい時は肩が震えてたからすぐ解ったよ。はは、静希をもっと笑わせたかったな。
 名雪。
 朝はちゃんと起きれる様にしろよ。俺はもう名雪を起こせないんだから。そうそう、猫がいるからって暴走するのもいい加減にしとけよ。それで遅刻しかけたんだから・・・でも、名雪は猫がいたら幸せそうに笑ってるんだろうな。
 和雪さん。
 前の世界ではああでしたけど、この世界ではあなたは名雪や秋子さんの側で、守ってあげて下さいね。それが俺のお願いです。
 秋子さん。
 和雪さんが側にいるんだから、きっと幸せなんだと思います。その幸せを3人で守っていって下さい。
 あゆ。
 食い逃げは犯罪だぞ。まぁ、そんな必要もないだろうけど、な。あゆが泣いてたら周りがみんな哀しくなるんだから、笑っとけよな。なんせあゆの笑顔はみんなに元気をくれるんだから。
 政志さん。
 あゆのうぐう、あなたの口癖が感染ってたんですね。俺、知りませんでした。早めの改善を提案します。
 美里さん。
 俺、あなたがどんな人なのかは知りません。でも、あゆを見る限り優しい人なんだなって思います。あゆを、支えてやって下さい。あいつは強がるけど、弱いから。
 香里。
 前の世界じゃ張りつめてたんだけど、この世界の香里は眼が優しかったと思う。栞の病気がなかったから、なんだろうな。その優しい眼でいてくれよな?香里の本当の笑顔、優しいんだから。
 栞。
 アイス好きなのは分かるけど、食べ過ぎは良くないぞ。胸が大きくなるより腹が出っ張ったらシャレにならんだろ?・・・ま、元気でいてくれたら俺はそれでいいんだけど。・・・本当に、元気で笑っててくれよな?あんな儚い笑顔じゃなくて、さ。
 舞。
 舞は無口だから誤解されやすいけど、愛想良くしたらきっと人気出るぞ。もっとも、そんな舞を見ることが出来ないのは悔しいけどな。でも、笑顔だけは変わらないんだろうな。人を優しい気持ちにさせる様な、そんな笑顔なんだろうな。
 佐祐理。
 あえて、こう呼ぶよ。もう、罪の意識なんか無いはずだから、もう『わたし』に戻ってもいいんだ。偽りの笑顔はもう要らない。笑いたい時は笑えばいい。泣きたい時は泣けばいい。怒りたい時は怒ればいい。もう、自分を赦していいと思うぞ。笑う時は、本当の笑顔でいて欲しいから。
 美汐。
 美汐の心に残ってた最後の傷だけど、もう癒えてるはずだよな。だって幸耶がいるんだから。美汐の本当の笑顔って、この世界ではじめて見たんだけど・・・綺麗だなって思った。寂しそうな笑顔じゃなかったからなんだろうな、きっと。
 真琴。
 きっと、寂しくないよな?真琴の側には、家族がいるんだから、寂しくないよな?俺は側にいられないけど、でも誰もが側にいるんだから・・・。真琴はいつも元気で笑い転げててくれよな。それが、お前らしさなんだから。
 久遠さん。
 すみません。結局久遠さんを頼って・・・俺は、消えるみたいです。俺はもう駄目だけど、俺みたいに困った奴が居たら助けてやって下さいね。あなたは・・・いつも寂しそうに微笑ってましたよね。本当の笑顔、見たかったです。
 更紗。
 ありがとうは言わないって言ったけど、俺からは言うよ。更紗、ありがとう。結局さ。人だの妖だのなんて小さな事だよな。ただ存在のあり方が違うだけで、感情は変わらなかった。ま、更紗はちっちゃい時も何だか全てを包み込む様な笑顔だったけど、さ。俺、更紗の見守る様な笑顔、好きだったよ。
 相馬。
 はは、お前結局殴り得になったな。悔しいってったら悔しいけど、な。忘れた頃に相馬を殴りつけたかったんだけど、仕方ないよな。ま、ずっと相馬らしく笑っててくれ。でないと俺が悔しすぎるから、さ。
 幸耶。
 幸耶が美汐に自分のこという時に近くにいたかったんだけどな・・・残念。お前には何だか怒られてばかりだったけど、最後に笑った顔を見ることが出来て良かったよ。
 魁利さん。
 人界はいろいろ大変ですけど、大丈夫ですよね。俺のわがままで、悪いことしたなって思ってます。・・・今更言うなって、あなたは苦笑するかも知れませんけど。
 和葉さん。
 真琴はああ見えて寂しがり屋ですから、気を遣ってやって下さいね。でないとあいつ、拗ねますから」
 ――現実はあまりにも残酷なもので。
 もはや光は祐一の姿を表さず、空気は祐一の声を伝えない。
 つまり、<祐一は世界から認識されなくなった>
 故に、妖たちも人間たちもこの場を去っていった。
 何か、大切なものを忘れている。
 忘れてはいけないことを忘れている。
 そう思いながらも、しかし彼らは立ち去っていった。
 まるで、この場にいることが苦痛であるかの様に。
 だが、祐一は立ち去る彼らの後ろ姿――妖たちが時の回廊の向こうに、人間たちが華音の街に立ち去っていく姿を見送りながら、微笑っていた。
「・・・みんな、ありがとう。
 出会えたことに感謝してる」
 今にも壊れそうな、しかし笑顔で。
「今はもう、無理だけど、いつか。
 輪廻の果てに、きっと逢えると信じてる」
 慈愛に満ちた――あるいは、満ちすぎた微笑みで、祈りを世界に刻み込んで。
「それから――」
 最後の声は、途中で奪われた。
 何が言いたかったのだろうか。
 その言葉は紡がれることなく、存在の最後の、そして根幹を為す部分――心が解け、祐一の存在は崩壊した。
 その瞬間――
 祐一の存在は欠片となって降り注ぎ。
 少女たちは、その欠片を両手で受けながら。
 自分でも理由の分からない涙を流した。


 その恩恵を受けた誰も知らず、誰も気付かない。
 そんな奇跡を成し遂げた祐一が、最後に世界に刻んだ意志は――
<どうか、幸せに>
 ただ、それだけ。
 ただ自分の大切な人のためだけに、自らの存在を代償に起こした奇跡。
 そんなあまりにも哀しく、優しい奇跡から7年が過ぎて、季節は春。
 人間たちの華音では佐祐理と舞、幸耶が高校の最高学年となり、千早と静希、名雪と香里、そしてあゆが2年、栞と美汐、真琴が入学を迎える季節。
 妖たちの華音では、恒例の花祭が執り行われ、久遠の前で鬼族の次期党首たる相馬が笛を吹き、竜族の姫たる更紗が舞う季節。
 少女たちは大切な何かを無くした様な喪失感を感じながらも、それでも幸せそうに笑っていた。
 祐一が夢見た世界が、そこにあった。





どうか、幸せでありますように──





―continuitus―

solvo Locus 07-01 "in principium/cerasus"

moveo Locus 06-09 "consecare in mundus,spons ex variatio"