Locus 07-02 "in principium/ventus"





『これが、君が望んだ──』





 例えばあゆ。
 登校時間。
 月宮邸の右側5mのポストの前であゆは悩んでいた。
 残り少ないお小遣いから、どうやって鯛焼き代をやりくりするか、にである。
 悩んで、悩んで、悩んで、とりあえず、
「うぐぅ」
 呟いてみる。
 ・・・何の解決にもならない。
 困って、更に呟いた。
「うぐぅ・・・」
 やはり何の足しにもならない。
 最近まで、浮かばなかった疑問が浮かんでくる。
 自分はいつ、そして何故、ここまで鯛焼きが好きになったのだろうか?
 その記憶が見つからない。
 その日自分は泣いていた様な気がする。
 その日は哀しいことがあった様な気がする。
 そしてきっかけをくれた子は、何だか意地悪だった気がする。
 そして、風が強いある日――全てが壊れた様な気がする。
 何故そんな気がするのだろうか。
 無いはずの記憶なのに。
 多分そうなのだろう。
 しかし何故、あの光景が気になるのだろうか?
 つい先日から見出した夢。
 その夢の中の光景。
 紅い空。
 紅い雪。
 強い風。
 誰かの泣き声。
「・・・誰?」
 呟き。
 その答は見つからず、答を導く鍵もない。
 つい先日から見出した夢。
 その夢が脳裏から離れない。
 気になって、仕方がない。
 この記憶はいったい何なのか。
 この夢はいったい何なのか。
 何故、こんなにも心は何かを――もしくは誰かを求めているのか。
 分からない。
「何故、ボクは・・・」
 刹那。そんな疑問を消し去るかの様に強い風が吹いた。
 風は疑問を洗い流し、奪い去っていく。
「待って・・・!ボクのココロを」
                  持っていかないで。
 だがその言葉が出る前に風は消え去り、疑問も消え去った。
 あゆは自分が何を考えていたのかを思い起こそうとして失敗し――無理矢理、その答を見付けた。
 そうだ。
 どうやって鯛焼きを算段するか、だ。
「こうなったら・・・」
 ぐ、と拳を握り、あゆは力強く宣言した。
「食い逃げしかないね!」
「へぇ?」
「ひっ!」
 後ろから聞こえた声に、あゆは思わず息を止めた。
「あ・ん・た・って子は〜!」
 そして あゆのこめかみに拳を当てて、ぐりんぐりんと捻り出す。
「なんで普通にアルバイトするとか自分で作るとか、はたまたお母さんに作ってもらおうとかって浮かばないの!」
 しかるに、あゆの返答は。
「だって学校アルバイト禁止だしボク料理苦手だしお父さんならともかくお母さんに作ってもらうなんて論外だもの!」
「論外?」
 思考能力が落ちていたためだろう、あゆは普段なら決して口にしない言葉を口にした。
「論外だよ!だってうちの料理人はお父さんだよ!第一お母さんの料理って、独創的すぎて人外魔境の域に達してるじゃない!・・・あ」
 破滅の、一言を。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふ」
 表情は髪で隠れ、ただ口元だけが見える。
「えーと、赦してなんてもらえないのかな?」
 もしかしたら、と思って口にするも。
「さぁきりきりついてらっしゃい」
 時、既に遅し。
「遅刻するからボクはもうぐぅ!?」
「逃がさヌ」
 一瞬の隙をついて登校しようとしたものの、敢えなく失敗。あゆは頭を掴まれて、さっき出たばかりの月宮邸へと引きずられていった。
「たーすーけーてー!」
 悲痛な――本当に悲痛な悲鳴だけを残して。
 その日、虚ろな目をしたあゆが学校に姿を見せたのは、2時間目の授業が終わってからだった。



 例えば名雪。
「な、なんだろうかこれは」
 朝起きてきた雅雪が眼にしたのは、テーブルの上に広がっている得体の知れない物体だった。
 おそるおそるつついてみたら、それは
「うにゅ」
 と声を上げた。
「・・・名雪か」
 本気でほっとした表情で、雅雪。
「ほら名雪、いい加減眼を覚まさないと遅刻するぞ?」
「うにゅー、だいじょうぶだおー」
 ・・・起きない。
 雅雪は大きな溜息一つ。
 くすくすと笑う秋子に、苦笑しながら問い掛ける。
「仕様がないなぁ。秋子さん、パン焼けてるかな?」
 はい焼けてますよ、と手渡されたトーストに、雅雪はすかさずオレンジ色のジャムをたっぷり塗って、美味しそうに食べ出した。
 と。
「だお!」
 名雪、覚醒。 
「お、名雪起きたか」
 言いつつ、雅雪は更に一口。
 そんな父を、名雪は世にも恐ろしいものを見るかの様な目で見て、
「お、お父さんおはよう!わたし着替えてくるね!」
 脱兎の如く逃げ出した。
 やがて聞こえる階段を上る音。
 踏み外して転がり落ちる音と
「だおー!?」
 と言う悲鳴。
 そして、再び階段を上る音。
「・・・何なんだろうな?」
 雅雪は怪訝な表情で、2枚目のトーストに手を伸ばした。

「うう・・・お父さん、なんで平気なのかな?」
 どうしようもない疑問を口にしつつ、着替えて。
 不意に、思いつく。
「・・・・・・」
 何故だろうか。
 ずっと、ずっと昔。
 あるいは、これからちょっと先。
 自分を起こしてくれていた誰かがいた様な気がするのは。
「・・・・・・」
 着替え終わり、窓を開ける。
 冬が終わったばかりの、あるいは始まったばかりの春の風が吹き込んでくる。
「ただの・・・夢のはず・・・」
 そう、ただの夢だ。
 そのはずだ。
「でも、なんで・・・」
 コンナニモ、セツナイノダロウカ?



 例えば香里。
 そして栞。
 香里は栞が作った卵焼きを複雑な表情で見つめていた。
 栞はそんな香里を期待の表情で見つめていた。
 香里は小さく呟いた。
「確かに朝ご飯を作ってくれたのは嬉しいけど、でもこの卵焼きはかなり嬉しくないわ・・・」
 その声に込められている感情は切望。
 どうか、勘弁して欲しい。
 だが、栞は。
「えうー!そんなこというお姉ちゃんなんて嫌いですー!」
 泣き出した。
「仕方ないわね・・・」
 本当に、全く以て不本意なのに、と疲れた表情で吐息の様にこう言えば、
「本当ですね!食べてくれるんですね!」
 栞は満面の笑みを浮かべた。
「・・・謀ったわね!」
「騙されるのが悪いんですー」
 香里はぐっと拳を握った。
 いつか、きっとガラムマサラを仕込んだバニラアイスで復讐してやる、と。
 だが、今は目の前の敵である。
 黄色く、甘い香りを立ち上らせているそれに箸を伸ばし一口。
「だだ甘っ!」
「酷いです、こんなに美味しいのに!」
 自分が作った卵焼きを美味しそうにぱくつく栞を無視し、香里は急須に手を伸ばし、お茶を湯飲みに注いだ。
 そして一口お茶を飲んで、
「・・・・・・し・お・りぃぃぃぃ!」
 怨嗟の声を上げた。
「お、お姉ちゃんなんですか?」
「なんで玄米茶にまで砂糖入れてるのよあなたは!」
「えぅー!」
 頭を掴まれ、栞は悲鳴を上げて。
 端から見たら、じゃれ合いにしか見えない。
 現に香里と栞の両親は、苦笑混じりに二人を見ている。
 ――ちなみに彼らの朝食はトーストとコーヒーであった。
 そんな両親を恨めしそうに見ながらも、香里は疑問を感じていた。
 つい最近までは浮かばなかった疑問。
 それが、噴出している。
 アタシハシオリトコンナフウニワライアッテタダロウカ?
 そして垣間見るのは過去の、あるいは未来の罪。
 ナニ、コレ?
 傷付きたくないから栞を無視し、それでも懐いてくる栞を居ないものであるかの様に扱う自分の姿。
 コンナノ、シラナイ
 泣き出して、誰かにすがろうとする姿。
 ダレナノ?
 その表情は見えない。
 顔は見えているのに、認識が出来ない。
 知らない光景。
 知らない人。
 思い出したいのに、その手がかりすらない幾つかの出来事。 
 アタシハナニヲワスレテイルノ?
 唇が無音の疑問を紡いだ。

 そして、栞も疑問を感じていた。
 ワタシハイツカラコンナフウニゲンキニナッタノダロウカ?
 何か、きっかけがあったはず。
 何かが起こっていたはず。
 だが、分からない。
 ふと姉に目を向ければ、心だけどこか遠くへ行ってしまった様に焦点があっていない。
 その瞳に引き込まれるように、垣間見えたのは冬の空。
 冷たい風の中、見上げた教室に姉の姿。
 もっと話したくて、ここまで来た。
 いつからだろう、姉は自分をその瞳に映さない。
 話しかけても無視される。
 ──悲しかった。
 ──涙が出た。
 でも、姉が変わったその理由は?
 そうだ。
 自分の命が残り少ないから。
 最初からいなかったことにすれば、心の傷は浅くてすむ。
 そう、思ってしまったのだろう。
 そんなときに出会ったひと。
 少し意地悪で、でも自分を支えようとしてくれたひと。
 ──それは一体誰だったのだろうか?
 自分は確かに子供の頃は病弱だったけど、今は健康。
 そんな命にかかわる病気なんて患ってはいない。
 ただの、物語の一部。マンガとか、小説の中の一説の風景。
 そのはずだ。
 だが、何で──
 コンナニモ、ココロガイタムノダロウカ?
 その人の顔はおろか、声も記憶に無い。
 ただ、一緒にいて楽しかったこと、嬉しかったことは心に残っている。
 優しい、笑顔。
 からかうような声。
 そして、ぬくもり。
 喪ってしまった、あるいは奪われてしまったそれ。
 欲しい。
 これが本当にあったことならば、その記憶が欲しい。
 ワタシハ、
 アナタノ、
 キオクガホシイ。


 じゃれ合っていた姉妹に訪れた沈黙。
 その沈黙を破ったのは、母親のこの言葉。
「ねぇ、あなた達。学校、行かなくていいの?」
 その声が、香里と栞を現実に引き戻した。
「え?何?」
「何ですか、母さん?」
 その問いにため息を一つ。、姉妹の母親は無言で時計を指差した。
 その指先に導かれ、時計を見た香里と栞は絶句。
「ま、拙いわ栞!行くわよ!」
「はい、お姉ちゃん!」
 そして二人は風の舞う街へ駆け出した。
 ──罪と悲しみの記憶を置き忘れたままで。





「何か・・・おかしい」





―continuitus―

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