Locus 07-03 "in principium/nubes"





「確かに・・・笑ってるけど」





 例えば舞。
 顔を洗い、目を閉じたまま手を伸ばす。
 手の届く所には無かったタオルが、まるで誰かが手渡したかの様に空間を滑り、舞の手に渡った。
 食卓に着きながらも顔を拭いていると、舞の母親──川澄由衣の呆れた様な声。
「舞。またものぐさして」
「だって、楽だから」
 そんな声に短く答える。
「この子ったら・・・でも、人前でやったら駄目よ?」
「大丈夫。注意してるから。それに、便利だし」
 そして軽く微笑む。
「それは・・・確かにそうだけど」
 舞は事実、この力を便利だと思っていた。
 しかし、それ以上にこの力は舞の大切な誰かを助けるためにある、と考えていた。
 だから、舞は自分自身の力が好きだった。
 だが、最近舞は時々疑問を感じていた。
 いつ自分はこの力を受け入れたのだろうか、と。
 ずっとずっと昔。
 誰かを信じたから、誰かが支えてくれたから。
 でも、それは誰だったろうか?
 そして、それよりももっともっと昔。
 自分は、この力をどう思っていた?
 コノチカラヲ、マモノトシテカロウトシテイタノデハナイカ?
 ――そんな馬鹿な。
 この力は、確かに人に見られないに越したことはないけど、それでも大切な力だし自分の一部だ。
 それに、この力があるからこそ出来ることもあるはず。
 舞はチカラを使い、顔を拭いたタオルを洗濯機に投げ入れた。
 ――と。
 幻の様に浮かぶ風景。 
 金色の穂波。
 流れ去る雲。
 駆けてくる、誰か。
 そして、涙。
 涙が流れたのは何故だったろう?
 ここで待っているのは誰だったろう?
 あのとき、その誰かと見上げた空と雲の色はどんなだったろう?
 それから自分はどうしたろう?
 そして、その誰かの言葉があったからこそ──
 チカラを受け入れることが出来たのではなかったろうか?
 疑問が止まらない。
 その、
 ダレカノ、
 表情が、
 ミエル、
 様な、
 キガシテ、
 心を、
 トギスマス。
 でも、
 カワイテ、
 喉が――渇いて。
 ナニモオモイダセナイホドニ、
 何も考えられないほどに、
 カワイテイル。
 渇きに耐えきれず、チカラで水分を引き寄せ、飲み干したら――灼熱感。
「舞・・・また不精して。でもお茶、淹れたてだったけど。熱くなかった?」
「・・・熱い」
 でも、本当に何故だろう。
 ココロガ、ダレカヲモトメテイル。
 それが誰かも分からないまま。



 例えば佐祐理。
 佐祐理は一弥と歩いていた。
「姉さんも歩くの好きだねー」
「だってほら、歩いていると車じゃ気付かないことに気付けるじゃないですか。道端の花とか、春の香りとか。だから私は歩くのが好きなんです」
 そう言いながら微笑み、空を見上げる。
 蒼い空に雲が流れていく。
 ああ、春だな。
 そう思いながら、やがて咲く桜に思いを馳せる。
(そうですね、私の家でお花見をするのも良いですよね。お父様にも声をかけて・・・きっと、楽しくなるはずです)
「一弥。桜が咲いたら、お花見しましょうね。私、お弁当作りますから」
「・・・いつもながら唐突だね、姉さん」
 佐祐理は一弥に目を向けようとして――驚愕した。
 霞んでいる。
 一弥の姿が。
 そして感じる微かな違和感。
(私は自分を何と呼んだ?)
 ワタシトヨンダ
(でも私は私のことを佐祐理と呼ばなければならないそれが佐祐理の罪だからそれが私の贖罪だから)
 でも、それはどんな罪だったのか――?
 問いただし、浮かび上がる一つの思考。
 ――一弥を見捨てた。
 その答に、佐祐理は頭を振った。
(一弥は一時期弱っていたけど、でも今はこうして元気です。遊びたくて、一緒に遊びたくて看病しました。だから、というわけではないかも知れないけど、一弥は今隣で穏やかに笑っているじゃないですか)
 そして先ほどの考えを笑い飛ばそうとして――刹那の風に流される雲に、佐祐理の瞳が硝子の瞳に変わり――垣間見る。 自分の罪を。
”正しく”あるべきと厳しく当たり、ゆっくりと、壊れていった一弥。
 そして命は散って──
 後悔して、後悔して、後悔して。
 自らの左手首に刃は伸びて――そして鮮烈の紅。
 それ以来張り付いた偽りの笑顔。
(コレハウソ。ダッテ、カズヤハイマコウシテワタシノトナリニイル)
 それに自分はちゃんと笑っている。
 ――ならば、それをもたらしたのは一体誰だったろうか?
 自分を諫め、あるべき道を示したのは?
 笑顔の雰囲気は思い出せるのに、笑顔そのものが思い出せないのは何故だろう?
 いや、そもそもその記憶がないのか?
 その人影を探そうとして、探したくて、しかし手掛かりはなくて。絶望に一滴だけ、右目から涙が零れて――
 頬を伝い、地面に落ちた瞬間にその思考は閉ざされた。
「姉さん?」
 心配そうな一弥に微笑みかける。
「いえ。なんでもないですよ、一弥。佐祐理は大丈夫ですよ」
 想いは掻き消され、残されたのは罪悪感。
「ほら、早く行きましょう。舞が待ってますし」
 微かな軋みが、生まれていた。



 例えば美汐。
 美汐はものみの丘に来ていた。
 別に用事があったわけではない。ただ何となく気になったから。
「そのためだけに早起きするというのも何ですけどね」
 呟きながら、苦笑。
 まだそのまま座るには冷たいので、立ったままで空を見上げる。
 時の流れと共に変わり行く雲に、目を奪われる。
 解け、繋がり、散っていく。
「まるで――縁の様ですね」
 出会い。
 別れ。
 再び出会う。
 まるで自分とあの子のよう、と呟いて――その呟きに驚愕する。
 あの子とは誰のことだったろう?
 自分に問い掛け、答を得る。
(そうです、幸耶さんです)
 男の子だとばかり思っていたのに、女の子だったとは。
(騙されました)
 はぁ、と溜息を吐いて――気付く。
 何故、自分は幸耶のことを<あの子>と呼んだのか?
 そして、思考は迷宮に入り、記憶にない記憶を蘇らせていく。
 ものみの丘に住まう者たち。
 人の姿を得た妖狐。
 脳裏に浮かぶ幾つかの単語を美汐は否定した。
 非常識な。そんなことがあるわけがない、と。
 だって、真琴も幸耶も人間なんだから、と。
 だが、同時に気付いてしまった。
 ――何故
 ワタシハシゼンニマコトヤユキヤヲジンガイノソンザイトミナシタノダロウカ?
 頭を思い切り殴られたかの様な衝撃。
 その衝撃は心を奪い、奪われた心が見るのは刹那の情景。
 自分の目の前で消えていく、<あの子>。
 数年の後、再び出会った妖狐。
 彼女は、まだこちら側に来たばかりで、人としての姿を持ってはいなかった。
 それでも美汐は再びあのときの辛さを味わうのが嫌で、逃げようとして。
 引き留められた。
 宜しく頼む、と。
 ソウイッタノハダレダッタノダロウ?
 思い出すことが出来ないくせに、何故か分かる。
 少し意地悪で、口が悪くて、でも優しい目で笑うひと。
 その笑顔は思い浮かぶに、その表情は思い出せない。
 確かにそこにいたのに、その記憶がない。
 なんて矛盾。
なんて曖昧な記憶。
 でも、ただ一つ確かなことは――
 ワタシハ、アナタニアイタイトイウコト。
 誰かは分からない、本当にいるかどうかも分からない。
 それでも、逢いたいと――願って。
 美汐は風の中瞳を閉じた。
 風に乗って、真琴の声が届いてくる。
「あう〜!遅刻する〜!」
 その声に、心は現実に戻る。
「・・・遅れる?」
 幻想の思考は歩みを止め、現実が動き出す。
「そうでした・・・私、今日花壇の世話があったのでした!」
 思考を置き去りに、心を置き去りに美汐は丘を駆け下りた。



 例えば真琴。
「あう〜!どうしようどうしようどうしよう!」
 慌てながらもひたすら疾走。
 と、横に並ぶ影一つ。
「おはよう、真琴」
 走りながらもその影は真琴に挨拶した。
 真琴も同じく走りながら、その影――美汐に朝の挨拶と素朴な疑問。
「おはよう、美汐。美汐も遅刻?」
 美汐の答は真琴の予想とは少し違うものだった。
 つまり、
「ええ、花壇の世話、あまり出来なそうです」
「え?随分と余裕」
           あるのね、という言葉は美汐の次の言葉で消え失せた。
「迂闊でした。もう8時です」
 真琴はつい立ち止まった。
 何故なら、もしその時間が正しいのならば――
 この疾走の意味が無くなるから。
 だから、何とか否定しようとして美汐にこう、言ってみた。
「・・・え?8時半じゃないの?」
 だが、美汐の答はある意味残酷なもので。
 美汐が溜息混じりに指差した先は、商店街の時計塔。
「真琴。今は8時ですよ?」
 指先に導かれて時計を見ると――美汐の言ったとおり、今は8時。
 まさか、と思いつつ真琴が自分の腕時計を見てみれば――秒針が動いていない。
「えええええ!?」
 あたしのこの疾走はなんだったの!と言いたげな真琴に
「でわ!」
 と言い残し、美汐の背中が商店街から消えた。
「・・・・・・あう」
 間抜けさに、思わず呟く。
 思い起こしてみれば、遅刻とは無縁の幸耶がまだ起きてこなかったり、父も母も怪訝そうな顔をしていたり、思い当たる節は多かった。
 そして安堵のためだろう、気付かなかった(あるいは、気付かないふりをしていた)空腹を自覚。
「お腹、空いたなぁ・・・」
 呟きと同時に真琴のお腹が小さくくぅ、と鳴った。
「あう・・・目が回る・・・お小遣い、残り少ないんだけど、仕様がないわね・・・」
 呟きながら、コンビニに。
 まずはオレンジジュースを取り、続いてBLTサンドに手を伸ばしかけて――その手が、止まった。
「あ・・・肉まん」
 目を奪ったのは、一つだけ残っていた肉まん。
 別に理由はないのに、普段なら食べようと思わないはずなのに。
 今日に限って、肉まんを食べたくなった。
「たまには・・・いいわよね?」
 呟き、真琴は肉まんを買った。
 そして――
 店の外に出て、肉まんを一口囓ったら――
「・・・あれ?」
 涙が、零れた。
 真琴は困惑した。
 なんで涙が出るのだろうか?
「泣いてなんか・・・!」
 誤魔化す様に空を見上げて。
 その視界に、蒼と白が飛び込んできた。
 蒼穹の空を駆け抜けていく白い雲。
 どんなに手を伸ばしても、ここからは手の届かない存在。
 今は、掴むことなど出来ない存在。
 まるで、今はもう逢えない誰かのよう。
 ――今は?
「なら・・・いつなら、あの雲を手に掴むことが出来るんだろう?
 いつなら、その誰かに逢えるんだろう?」
 つい、と手を伸ばして。
 かき回す様に、手を振ったら――
 雲が、割れた。
 真琴は目を見開いた。
 まさか、と思いつつもう一度手を振る。
 ツナガレ。
 そう念じて。
 すると二つに分かれた雲は重なり合い、結びあい――
 一つの雲となった。
 その雲に、自分の腕から流れる何か――
 チカラの、残滓。
 何故、こんな力を持っているのか。
 ――ものみの丘から至る世界。
 不意に浮かぶ幾つかのコトバ。
 ――妖の世界に住まう者。
 それは、真琴にチカラの自覚を促して――
 ――妖狐。
 真琴の瞳が獣のものとなり――金の光を宿した。
 金色の瞳に映るのは、遙かな過去か遠い世界か。
 その場所で、真琴は幸せだった。
 いつも眠そうな1番目の姉。
 ドジだけど一所懸命な二番目の姉。
 そして、料理の上手な、笑顔の優しい義理の母。
 そんな人たちに囲まれた、今と同じくらい幸せな場所。
 それと同時に垣間見えたのはもう一つの世界。
 誰かを恨んでいる自分。
 その誰かは意地悪な笑みを浮かべて、でもその暖かさに偽りはない。
 そして、その意地悪な笑顔の下に隠された優しさにも。
 真琴はその暖かさを――その暖かさをくれる誰かのことが、本当はとても好きだった。
 でも、その顔が、その声が思い出せないのは何故だろう?
 代わりに思い出せるのは、小さな小さな鈴の音。
 ちりん。
 そう、小さく鳴るだけで、狂おしいほどに切なくなる。
 何故だろう?
 こんなにも、切なくなるのは何故だろう?
 ちりん。
 ただ鈴が鳴るだけで、こんなにも涙が溢れるのは?
 空を見上げて、涙に濡れたまま真琴は問う。
「真琴は何を得て、何を喪ったの・・・?」
 その答に答えるものはない。
 ただ、掻き乱される様に、或いは心を掻き乱すかの様に雲が流れ去り、春の日差しと――
「・・・学校いこっと。美汐もいるし、退屈じゃないよね?」
 記憶の欠片を砕かれた、真琴の笑顔だけが残ったのだが――
 ただ、その笑顔には――どこか、陰が宿っていた。





「でも・・・どこかが・・・」





―continuitus―

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