Locus 07-04 "in principium/sol"
「なんて・・・こと」
例えば幸耶。
幸耶はカーテンの隙間から差し込む日差しに眼を覚ました。
「ん・・・」
目を開けて、天井を見つめる。
あれ、と思う。
「ここ・・・どこ?」
見覚えのある場所ではない。
どこだろう、ど悩んで――浮かび上がる結論。
「あ・・・そうだ。あたしの家だ」
苦笑。
何を寝ぼけているんだろう、と呟きながら布団を跳ね飛ばし、身体を一気に起こす。
「どうしようもないなぁ。今はここがあたしの家なのに」
その呟きに、唖然とする。
「今は――?」
どういう事だろうか、と唇が動いた。
まるで、以前は違うどこかに居たかの様に。
――馬鹿馬鹿しい。
――自分たちはずっとこの街に住んでいたのに。
だが、それを否定する様に浮かぶ異界の風景。
懐かしい、風景。
それが否定してしまう。
今の生活を。
その場所ではどうだったろう?
確かに両親はいたが、妹はいただろうか?
いなかった様な気がする。
でも、それはどこで?
そもそもこの世界だったのだろうか?
この世界の様に、喧噪に満ちていただろうか?
幻の様に浮かぶのは、柔らかな日差しが満ち、穏やかな風の流れる世界。
その世界を支える桜の木の下、空を見上げていたのはいつのことだったろうか?
異界の住人たる鬼や竜、妖狐に混ざって遊んでいた、あの人間の男の子は?
「――!」
その思考に幸耶は驚愕した。
「人間、の・・・?」
ごく、自然に。
人間以外の存在の様に。
「そんなことって・・・」
自分が、人間ではないことを前提とした思考に。
浮かび上がるのは、幼い日の記憶。
微かな、本当に微かな何か。
記憶とすら呼べない、記憶の欠片。
打ち砕かれたそれ。
そこに微かに残る、その誰かの感触。
暖かい。
意地悪。
でも優しい。
ココロガクダケテモイイカラアイタイ、ソノダレカ。
――涙が零れた。
陽光に照らされた涙の源。
それは金色の、獣の瞳。
例えば千早。
千早はベッドの中で小さく延びをしたあと、部屋のカーテンを思い切りよく開けた。
「ん!今日もいい天気!」
寒さを堪えて、窓を開け放つ。
吹き込んでくる風は、鮮烈な朝の香りをもたらした。
「んー、まだ少し寒いけど・・・春、近付いてるね」
思わず笑みがこぼれる。
近付いてくる春を思い、桜が咲いたらお花見に行かなきゃね、と呟いて、遠くに見える巨木を眺める。
「あの樹も、変わらないよねー」
あの世界では伐られちゃったのに、と呟き――驚愕する。
あの世界、とはどういう事なのか、と。
刹那、幻像の様に脳裏に過ぎるのは降り注ぐ絶望の中、それでも笑顔で歩いていく誰かの背中。
力強く、寂しそうで、懐かしく、そして愛おしい――
しかし、千早はその背中を知らない。
知らないのに、心を揺さぶるその誰かに――心が乱れた。
「なに・・・これ?あたし――知らない・・・知らない!」
そして浮かび上がる、知るはずのない幾つかの景色。
例えば朝。
嬉しそうに朝食を作っている自分。
それを茶化す静希。
美味いぞ、という誰かの声が誇らしかった。
例えば昼。
美味しそうな弁当を作ってきた静希に、自分は対抗意識を燃やしているが、その誰かはそんな事に気付きもせず、目の前の弁当に夢中になっていたのが悔しかった。
例えば夜。
その誰かが腕を揮った幾つかの料理。
タコの刺身らしきものを、ついつい千早と静希はつまんでいる。
それに気付いたその誰かは苦笑して――
その笑顔が、心を揺さぶる。
知らない笑顔。
見えない笑顔。
記憶にない、優しい笑顔。
そんな笑顔を浮かべていた誰か――
「あなたは・・・誰?」
呟きと同時に、右の目を突き刺す様な痛み。
そして頬を伝わったのは涙。
だが、その涙の理由は瞳の痛みなんかではなく、胸を切り裂く心の痛み。
心は千々に乱れ、狂おしいほどに想う。
――アイタイ。
しかし、千早は知ってしまっている。
もう彼に逢えないことを。
彼の顔すら知らないのに、
記憶にすら残っていないのに、
逢えないことだけは知っている。
それでも唇は言葉を紡ぎ、祈りをカタチにしていく。
「――ねぇ。逢いたいよ・・・?」
陽光が部屋に差し込み、千早の右の瞳の色を変えた。
その色は、晴天の蒼。
そしてその髪に入り交じるのは紫金――
金の羽根が、散った。
例えば静希。
静希はガラス越しの太陽に目を細めながら、紅茶を楽しんでいた。
「いい、天気です」
呟きながら、リモコンに手を伸ばす。
流れ出すのはヴォカリーズ。
甘く、切ない旋律。
旋律の中、目に留まったのは自分が持っていないはずのCD。
「何ですか・・・これは?」
それは誰かの部屋で聞いたCD。
馬鹿馬鹿しくて、でも思い切り笑えた。
涙が出るほどに、笑えた、CD。
その記憶が、その事実の記憶だけが深淵より蘇る。
誰が貸してくれたか、などは記憶にないのに。
オモイガ、ヨミガエル。
心を切り裂くほどに――
切ない。
せつない。
セツナイ。
連鎖する感情。
感情は増殖し、制御も効かない。
「誰・・・?」
掴めそうなのに、指の隙間からその誰かの記憶が滑り落ちていく。
ただ残るのは事実。
そのひととは逢えないという事実。
それでも諦めきれない。
諦めるなんてできそうもない。
静希は逢えない誰かを想い、知っていたはずの誰かを想い、切なさに震えた。
「・・・あなたは・・・一体?」
何も思い出せないまま、ただ蘇るのはイメージ。
お日様のように暖かい、そのひとの笑顔。
全てを守り抜くために傷付いていった背中。
それでもその背中は優しさを喪わなくて――
哀しいほどに、喪わなくて――
あのときは気付けずにいたことが、今なら分かる。
――アノヒトハ、ジブンタチモマモロウトシテイタ。
この世界に元々いたひとたちだけじゃなく、
「あの世界から転生した・・・私達まで・・・」
そして、驚愕。
パズルのピースは所々抜けている。
でも、分かってしまう。
その、誰かの存在が喪われたことは。
死んだのではない。
喪われたのだと。
「どうすれば・・・あなたに逢えるんですか!?」
叫び。
血を吐く様な、叫び。
そしてその刹那――
「――痛」
左の瞳に突き刺さる、痛み。
しかし流れた涙は痛みのためではなく、切なさのため。
流れ出る涙をそのままに、呟く静希。
「あなたは――どこですか?」
陽光が部屋を照らし、静希の左目の色を露わにした。
その色は、黄昏の紅。
そして長い髪には一房の青銀――
銀の羽根が、舞った。
「なんで――」
涙が、滲んでいた。
祐一が望んでいたのは、まさしくこんな世界だったはずなのに。
彼女たちは確かに笑っているのに。
大切な人は誰も傷付いておらず、何も欠けていない世界なのに。
人ならざる者である真琴たちは人となり、暮らしているのに。
死の運命にあった者たちは光の中で笑っているのに。
幸せな世界のはずなのに。
何で、彼女達は違和感を感じているのだろうか。
何故彼女達は心の底から笑っていないのだろうか。
何故彼女達は――泣いているのだろうか。
「――なんでなんだよ」
そう。
彼女達は確かに笑っていた。
だが、その笑顔のどこかには影が付きまとっていた。
――その影の正体は、もう存在しないはずの相沢祐一の残滓。
そして、彼女達は今、心を壊しかけている。
理由の見つからない痛み。
相手が存在しない切なさ。
記憶にないはずの出会い。
そんな、祐一が消えた以上残るはずのないものたちによって。
理由は分かっている。
何故かは分からないが、彼女達に祐一が消えた影響が陰を落としている、と。
祐一は叫んだ。
彼女達の存在をすぐそこに感じられるのに、遠く離れたこの世界では叫ぶことしかできなかったから。
「なんで、あいつらは哀しそうな顔してるんだよ!」
祐一の苦鳴。
世界にそれが響いた刹那。
空間に、声が響いた。
『でも、これが君が望んだ世界の姿だよ?』
「!」
祐一の目の前の空間が滲み、その揺らぎの中からその存在は姿を現した。
その姿は――滝元。
「滝元?まさか・・・お前が・・・」
滝元は苦笑し、その姿を滲ませた。
その後に姿を現したのは――
まだ幼い子供の様な。
あるいは年老いた老人の様な。
そしてあるいは青年の様な。
どれでもあり、どれでもない姿となった存在。
滝元――いや、その<存在>は祐一に微笑いながら告げた。
幼い。
嗄れた。
若々しい。
そんな声で。
『そう。僕が・・・君たちの言う<彼>だよ』
「お前が――?」
―continuitus―
solvo Locus 07-05 "et ille deridere"
moveo Locus 07-03 "in principium/nubes"