夜襲

     ここ近年、『異常気象』という言葉を肌で感じるようになった。
     梅雨時期の雨の降り方が激しすぎる。 今までに経験したことのないような豪雨が降り、
     何度も用水路が溢れたりして怖い目に遭っていた。 梅雨が終わると、台風の心配は
     あるものの、豪雨の心配がひとまず去るので、梅雨明けが待ち遠しくてしかたなかった。

     そんな8月10日(土曜日)。
     数日前から最低気温が27度を下らず、日中も33度〜35度の気温が続き、うんざりするような
     暑さ。 この日も日中の気温が33度と、じっとしてるだけで汗がにじむような気温だった。
     夜になっても気温が下がらず、扇風機の前から離れられない。 
     夕方から雨が降り出していた。 ここ数日の晴天の影響なのか雷雲が発生しているようだった。

     「雨の音が変わったで」と主人が言う。
     さっきから降っていた雨が激しさを増したのだ。 主人の長年の経験から、上手く音では
     表現できないけど、ある一定の音量を伴うようになると、1時間あたり30ミリ以上の雨が
     降る状態になりやすいのだそうだ。 そうなると、田んぼに水が溜まりすぎて畦(あぜ)が
     決壊したり、用水路が氾濫する可能性が高くなる。 この『危険な降り方』が10分以上続く時
     水害対策に腰を上げなくてはならないのだった。
     窓から外を覗くと、激しい雨のしぶきであたりが霧のような状態。 薄明かりに浮かぶ
     用水路の水は轟々と白波を立てて流れている。 
     胸がドキドキしてきた。 あの土石流災害が頭をよぎる(詳しくはリンクでどうぞ)。 
     あの時は昼間だった。 今は夜。 夜の豪雨ほど怖いものはない。 ただ、今は主人が
     いることがわずかな安心感を支えていた。 これだけの豪雨だと、水源へ出向いて
     水門を閉じることは危険すぎる。 水を見に出てそのまま流された例は後を絶たない。 

     見ているうちに水しぶきが用水路の上に跳ね上がり始めた。
     にゃお家の前の用水路は途中から地下に潜るような形になっている。
     当然、水の流れる量に限りがあるわけで、流れきらない水は脇へ流れ出る。
     その用水路に排水溝が繋がっている庭の排水升は、当然ながら水を排出することができない。
     集まる雨がそのまま庭に溜まり、あれよあれよという間に深さを増してきた。
     「田んぼに水が入り込まんようにせにゃ(しなくては)」と主人が裸足になった。
     すでに水は玄関のふちまで来ている。 このままだと床下浸水になってしまいそうだ。
     「危ないけぇ(危ないから)そこから(玄関から)懐中電灯で照らしとってや」と言い置くと
     主人は水の中に入り納屋の近くに置いてあるブロックを運んで田んぼの臨時排水口の
     ところへ置いた。 
     正式な排水口はにゃお家の反対側にあるけれど、それだけでは排水がまかなえない時の
     ために作られた臨時排水口はにゃお家側に2ヶ所ある。 普段は木の板で閉じてあるけど、
     水圧でこの木の板が押し流される可能性があるのだ。 そうなると土石流災害の時と
     同じように水の勢いで稲がなぎ倒され、また畦(あぜ)が崩れ落ちてしまいかねない。
     この木の板の上にブロックで重石をして、少しでも板が押し流されるのをとどめようと
     いうわけだ。 いくつものブロックを運んで重石にする。 その姿を2つの懐中電灯で
     にゃおが照らす。 この様子だと、もう横の用水路も裏の溝も、みんな水が溢れているに
     違いない。 雨足は収まる様子もない。 ああ、神様、助けて!!

     主人が戻ってきた。 「(にゃお家の反対側にある)排水口を開けてくる」と言い、にゃおの
     手から懐中電灯をひとつ持って再び雨の中、裸足のまま飛び出した。  雨が降り始めた時
     ここまでの豪雨になるとは思ってもみなかったので、排水口の板をはずしてなかったのだ。
     こちら側の排水口を開けることが不可能な限り、反対側の排水口を開けなくては
     田んぼに溜まった水の逃げ場がない。 少しでも排水しなくては!
     田んぼの畦(あぜ)を歩いていく主人を残った懐中電灯で照らす。 万が一、畦(あぜ)が
     崩れて落ちたとしても死ぬほどの高さではないけど、怪我をする可能性はある。
     にゃおの懐中電灯の明かりが主人に届かなくなり、主人が暗闇の中に消えていく。 
     主人が持っている懐中電灯の明かりだけがチラチラとしている。 

     やがて、明かりがこちらに向いた。 だんだんと明かりが大きくなり、にゃおの懐中電灯の
     明かりの中に主人の姿が浮かび上がる。 と、その時、ほんのわずかに雨音が変わった
     気がした。 少し雨足が落ちたようだ。 主人が濡れた体をタオルで拭いている間に、
     はっきりわかるくらいに雨量が減った。 

     ほんの1分でも雨足が緩めば、みるみるうちに用水路の水は引いていく。
     祈るような気持ちで雨を見つめる主人とにゃお。 何分、そうしていただろうか。
     主人が時計に目をやり、「峠を越えたんかもしれん」とつぶやく。 雨足が落ちて数分が経っていた。
     用水路の荒れ狂う水がだんだんと穏やかになり、それに伴って庭の水が引いていく。
     「もう、大丈夫よ。 入ろう」と主人に促されたものの、にゃおは当分、廊下から離れることが
     できなかった。

     翌朝、庭に置いてある雨量計代わりのバケツには160ミリもの水が溜まっていた。
     時間雨量にして40ミリ以上の雨が降った計算になる。 床下浸水は免れた。
     田んぼに水が逆流することもなかったし、畦(あぜ)が決壊することもなかった。
     「台風でもないのに、夏場にこんな豪雨が降るのは変だ」と主人が言う。 
     やっぱり異常気象なのかな? これからは雨が降るたびに心臓が締め付けられるような
     不安と恐怖を感じなくてはいけないのだろうか。

     疲れがどっと出た。

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